佐賀の乱直前の緊迫記す 大久保利通の書簡発見 佐賀城本丸歴史館に寄贈

「とにかく一打をたたきつけて朝権を示さなければ」と書かれている大久保書簡の一部
「とにかく一打をたたきつけて朝権を示さなければ」と書かれている大久保書簡の一部

明治初期に相次いだ不平士族の最初の反乱となった明治7年の「佐賀の乱」(佐賀戦争)の直前、鎮圧の先頭に立った新政府の内務卿、大久保利通が出した直筆書簡が見つかり、佐賀市の佐賀城本丸歴史館に寄贈された。本格的な武力衝突の5日前の同年2月10日付で、伊藤博文宛て。大久保の鎮圧への強い覚悟がつづられており、同館は「開戦直前の緊迫した状況が分かる貴重な資料」としている。

■伊藤博文に宛てる

書簡は大久保の雅号「甲東」にちなみ、「甲東公書簡」と記した桐の箱に収められていた。書簡のサイズは縦18・7センチ、幅155・6センチ。大久保直筆の巻き紙には由緒書きが添えられていた。書簡は亡くなった福岡市の個人収集家の遺品から見つかり、由緒書きに「佐賀」の文字があったことから「佐賀県の歴史に関係があるのでは」と昨年12月、家族が同館へ寄贈した。

同館によると、こうした内容の書簡があることは大正時代にまとめられた大久保文書で知られていたが、原本の所在は不明だった。

書簡は書き出しに「ただ今帰宅したところ、御投書を敬読つかまつり候」とあり、伊藤からの手紙に対する返事であることが分かる。続いて、明治新政府に対する士族の不満が九州各地で高まっている状況を念頭に、熊本鎮台が動揺しているとの情報について分析。大阪鎮台を向かわせる案について「実場(実戦)の経験がない」と心配し、山口県からの応援部隊派遣にも言及。「とにかく一打をたたきつけて朝権(朝廷の権力)を示さなければ」と強い決意を示している。

さらに「もし一着(初期対応)を誤るようなことがあれば、ことは決してこれだけでは済まない」と士族の反乱拡大に危機感をにじませている。

 「十二字八分前」の時刻が記された書簡末尾
「十二字八分前」の時刻が記された書簡末尾

■「佐賀の挙動常ならぬ」

最後に長崎からの電報で、長崎県令(知事)が上京するとの話を知り、「この時期に実にけしからん」と憤った後、「何分にも佐賀の挙動、常ならぬは相違御座なく候」と記し、佐賀士族への対応を急ぐ必要があると強調している。

書簡の末尾には「二月十日夜 利通 十二字(時)八分前」と細かい時間まで書いており、時々刻々と変わる情勢の下でしたためたことが分かる。

同館の芳野貴典学芸員は「当時はすでに電報による情報収集が盛んになってきており、伊藤は工部卿として、その中枢にいた。最新の情勢について、伊藤と情報交換した内容だが、切迫感が伝わる一級の資料だ」としている。

 書簡が納められていた桐箱(いずれも佐賀城本丸歴史館提供)
書簡が納められていた桐箱(いずれも佐賀城本丸歴史館提供)

佐賀の乱では県庁が置かれた佐賀城が攻防の中心になった。同館は3年後に、佐賀の乱150年特別展を予定しており、今回の書簡を公開する。

佐賀の乱(佐賀戦争) 明治新政府に対する不平士族による最初の反乱で、明治7年2月に起きた。大久保利通は全権として九州に赴き、2週間で鎮圧。中心人物の元司法卿江藤新平と元秋田県令の島義勇(しまよしたけ)は処刑された。

(永尾和夫)

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