手首は使わず肩、全身を使って描く 絵画展への第一歩 

「第31回全日本アートサロン絵画大賞展」(産経新聞社など主催、サクラクレパスなど共催)に出展しようと、クレパス画を習い始めた。5日間のトライアルレッスンで多彩な表現方法を学んだ後は、いよいよ出展作品の製作を始める。さて、どんな作品ができ上がるのか。まずは最初の関門「何を描きたいか」から考えた。

「今回は口は出しても手は出さへんよ」

大阪・梅田にある大人の絵画教室「サクラアートサロン」で受講したトライアルレッスンに引き続き、クレパス画の第一人者、田伏勉先生の指導を仰ぐことに。

何を描きたいか-実は筆者には秘めた構想があった。最初にクレパスの歴史や技法を学んだサクラクレパス(大阪市中央区)本社にあるサクラアートミュージアムで、「マグマ大使」の顔を描いたときのことだ。主任学芸員の清水靖子先生から「どうしてマグマ大使なの?」と質問された。

そして「マグマ大使」を描きたいと思っている自分がいることに気づいた。

田伏勉先生(右)にスケッチブックに描いたラフ画を見せる記者(寺口純平撮影)
田伏勉先生(右)にスケッチブックに描いたラフ画を見せる記者(寺口純平撮影)

清水先生は「出展作にはその人の人生が出ている方がいいし、物語のある作品もいいわね」と言っていた。それならば、マグマ大使の人生を描こう。「物語」を書くのはけっこう得意である。

時は昭和50年代前半、『マグマ大使』のテレビ放映終了から10年以上の歳月が流れていた。マグマは悩み、苦しんでいた。

「もう一度、お茶の間のヒーローになりたい。あのウルトラマンのように…」

『ウルトラマン』の放映は、マグマ大使よりも5カ月早い42年4月に終了していたが、その後シリーズ化され、子供たちはマグマ大使のことなど、すっかり忘れてしまっていた。

「誰かがこの笛を吹いてくれたら、もう一度、ヒーローになれるのに…」

悩んだマグマはライバル、ウルトラマンに自分を呼び出す笛を差し出し「吹いて」と頼む。だが、ウルトラマンは断った。ウルトラマンの口は笛を吹ける形状ではなかったのだ。

マグマ大使の悲しい物語

田伏先生はしばらく目を丸くして聞いていた。

「悲しい物語やな。しかし、ようそんな物語を考えつくな。まぁ、題材はええんとちゃうか。あとは構図をどうするかや」

実はそれも考えていた。「こんな感じで…」と恐る恐るスケッチブックに描いたラフ画を見せた。しばらく眺めていた先生、なんと「よう描けとる」と褒めてくれたのである。

ラフ画にはレッスンで習ったポイントを生かした。

3つの構成が重要

「絵は3つの構成が大事。色なら赤、青、白。黄でもいい。形も大、中、小の3つ。同じが一番アカン。同じでは〝模様〟になってしまうからな」

強弱をつけることが大切と先生はいう。人生の教訓でもある。主役の大は笛。中はマグマ大使。小はウルトラマン。

「よっしゃ。そしたら、それをパネルに描こか」と先生。ここで問題発生。ラフ画はスケッチブックをテーブルに置いて鉛筆で描けたが、パネルはイーゼル(パネル立て)に立てかけ木炭で描く。木炭なんか使ったこともなかった。

20号キャンバスに作品を描く記者=大阪市北区のサクラアートサロン大阪(寺口純平撮影)
20号キャンバスに作品を描く記者=大阪市北区のサクラアートサロン大阪(寺口純平撮影)

「手首やのうて肩で、全身を使って描く。大丈夫、失敗したら練りゴムで消せばええ」

不思議なもので、消したり描いたりを続けているうちに体も慣れて、思ったような下絵が描けてきた。なんか、画家になった気分。すると…。

「いやぁ、これマグマ大使? 懐かしいわぁ」

教室で自分の絵を描いていた同じ受講生のレディーたちが手を止め、周りにやってきた。

「男の子の夢がいっぱい詰まった絵やね。」

65歳でクレパス画を始めたばかりの筆者もここではすっかり若造扱いだ。(田所龍一)


サクラアートミュージアムで開かれた展覧会の様子
サクラアートミュージアムで開かれた展覧会の様子

大阪市中央区にある「サクラアートミュージアム」は平成3年、サクラクレパスの創業70周年記念事業の一環として同社の本社に併設された。

大正10年の創業時から画材、文具の開発、製造を行ってきたサクラクレパス。ミュージアムには大正・昭和期の日本を代表する画家が描いたクレパス画や、水彩画、油絵、版画などの絵画が収蔵され、一般公開されてきた。

特にクレパス画のコレクションは、大正以降から現代まで、日本美術画壇の主要画家の作品を網羅している。

現在は、新型コロナウイルスの感染予防・拡大防止のため、臨時休館しているが、普段は自主企画の展覧会や、教育普及活動にも力を入れている。