文芸時評

7月号 ひらがなを多用する理由 早稲田大学教授・石原千秋

早稲田大学教授 石原千秋
早稲田大学教授 石原千秋

佐佐木幸綱の最新歌集『春のテオドール』(ながらみ書房)の帯には「おもいつきたることあるらしく二階からいそぎおりくるテオとであえり」の一首が挙げられている。テオとは飼い犬テオドール(これが本名だそうだ)のこと。かつて実家の庭で犬を飼っていた経験があるので、「こういうことあるだろうなあ」と微笑(ほほえ)ましくなった。そういえばチビ(飼い犬の名前)はプッとおならをしたときには、いつも恥ずかしそうにこちらを振り向いたものだった。だから「おもいつきたることあるらしく」がよくわかる。

この歌を見て、平仮名が多いことに気づいただろうか。そして読みにくいと思っただろうか。あえてそうしたのだと、「あとがき」にある。少し長いが引用したい。

「この歌集を編集する過程で、全体にわたって、一首中の漢字を減らして平仮名を多くした。日常的にワープロをつかう機会がふえたせいもあって、私にかぎったことではないが、一般的に短歌の表記に漢字が多くなったような気がする。漢字が多いと、無意識的に読みが早くなる。意味をまず読み取ろうとする意識がはたらくからだろう。/言葉は、意味・イメージ・音楽からできているが、意味が拡大されると、イメージと音楽は必然的にかげをうすくしてしまう。つまり、短歌を読むときに、意味の読み取りをいそぐと、言葉が内包する歴史等をふくめて、言葉の厚みや深み、イメージや音楽がすどおりされてしまいがちになる気がする。/ほんの少しでも、時間にして〇・〇一秒でも遅く一首を読んでもらうためのささやかな工夫、苦肉の策である」と。

ちょうど大学院の文学理論の授業でロシア・フォルマリズムについて話していたので、すぐに紹介した。ロシア・フォルマリズムは、たとえばモノをその名で呼ばずに、赤のボールペンなら「プラスチックの筒に入って固められた赤いインクが、さらに筒の中に入れられて」のように過度の描写をすることで意味にたどり着くのを遅くすればするほど「文学性」(この概念が文学の本質だとする主張はすでに破綻(はたん)しているが)が高まると主張した。文学は意味を遠ざける傾向がある。「すべての芸術は音楽に憧れる」と言ったのは仏哲学者アランだったか。音楽それ自体は意味を持たないからだ。前衛芸術は意味を伝えやすくするように工夫されたリアリズムに抵抗し、必ず敗れる運命にある。勝ったら前衛芸術ではなくなってしまう。佐佐木幸綱の試みから、いまでもその傾向が変わらないことを教えられた。

石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社現代新書)を紹介する田野大輔「新書の役割 『ナチスは良いこともした』と主張したがる人たち」(群像)は、独りよがりにならないためには良質の入門書を読むのがいいというアドバイスだ。しかし、実のところ評価の定まった専門書よりも良質の入門書を探す方がはるかに難しいのだ。たとえば、社会において自己が卓越していることを趣味によって誇示する意味について知ろうとするなら、仏社会学者ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオン』(藤原書店)を読めばいいことはわりとすぐにわかるが、難解だ。そこで、石井洋二郎「ブルデュー『ディスタンクシオン』講義」(藤原書店)から入ることを学生には勧める。よい入門書を紹介するのは教師の大事な仕事だ。

「二〇世紀の思想・文学・芸術」(群像)は毎回興味深く読んでいる。今月も田中純の発言に教えられた。「戦後ドイツの奇跡的な復興とか、表面的な『過去の克服』を促進したのは、ゼーバルトの言葉によると、実は『自分たちの国家の礎には累々たる屍(しかばね)が塗り込められているという秘密』をひた隠しにすることであり、そのような過去の抹殺こそが奇跡的な復興を可能にした」という。ふっと、東京オリンピックと高度経済成長の時代を思った。

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