10月10日、阪急は昭和55年シーズンを終えた。前期29勝34敗2分けの4位。後期29勝33敗3分けの5位。試合後、岡田球団社長は、監督問題について「パ・リーグの全日程が終わってからでないといえないが、梶本監督は新旧交代の一番難しい時期に苦労してもらった。よくやってもらったと思う」と語った。
その言葉に引っかかるものを感じた。なぜ、全日程終了を待つのか。なぜ「もらった」という過去形なのか。
その答えが出た。中日と西武から監督就任を要請されていた上田利治が13日午前11時、東京・原宿の国土計画本社に堤義明オーナーを訪ね、西武入りを断ったのである。
「前期が終了した時点で第3者を通じ『根本監督がユニホームを脱ぐような事態になれば、監督を引き受けてもらえるか』と非公式に打診を受けていた。正式なものではないが、〝けじめ〟をつけるためオーナーにお会いしました」
上田が西武に「断り」を入れるという情報は数日前につかんでいた。では、中日の要請を受けるのか。編集局でも議論が分かれた。
「セ・リーグの監督はウエさんの夢。やっぱり中日やろう」「いや、それでは西武入りを推していた東京後援会に顔向けができないのでは?」「ウエさんはどちらも顔が立つように…と苦しんでいた」「となれば、どっちの監督も引き受けない可能性もあるな」
「いや、もう一つの可能性が残されとる」と言い出したのは、関大で上田と同級生、野球部で同じ釜の飯を食べた西田二郎デスクだった。
「阪急の監督復帰や。古巣から助けを求められ復帰する―ということなら、堤さんも仕方なく納得するし、東京後援会への顔も立つ。西武に断りを入れるということは、阪急復帰が決まったということやろ。すぐ、裏取りや!」
1年生の筆者も訳が分からないまま会社を飛び出した。いったい阪急はいつ、誰が上田に監督就任を要請したのだろう。梶本監督はこの動きを知っていたのだろうか。いや、知らないわけがない。10月10日の時点ではすでに…。
「前半で大差のつく試合が多く、無気力な印象をファンに与えたのは申し訳ない」と語った梶本監督の寂しそうな顔が浮かんだ。(敬称略)