ビブリオエッセー

次々に消されてゆく記憶 「密やかな結晶」小川洋子(講談社文庫)

27年も前に出版された小説だと知った。英訳されてブッカ―国際賞の最終候補になったことは記憶に新しい。驚いたのは今もなお少しも古びていないことだ。

もうずっと以前から、突然「消滅」が起こる島があった。それはリボンだったり、鈴や切手だったり。香水は消えるとともに人々からにおいの記憶も消えてゆく。住民たちは「仕方ない」と受け止めるしかなく、何をなくしたかさえ思い出せず、苦しみの感情はない。

どうやら偶然ではなさそうだ。読み進むと、「秘密警察」の存在が明らかになる。実は記憶を保ったままの特殊な人々もいて、彼らは見つかり次第、警察の「記憶狩り」の一団に連行されてゆく。遺伝子の解読で要注意人物の選別が可能なのだ。人間もまた消えてゆく。

主人公の「わたし」はこの島で小説を書いて生活している女性だ。母は秘密警察に連行され、亡くなった。担当編集者のR氏がこの記憶を失っていない特殊な人間の一人で、「わたし」は協力者のおじいさんと、R氏のために隠れ家を用意し、息をひそめて生きる。

小川さんは『アンネの日記』を念頭にこの小説を書いたという。なるほどナチスの弾圧を思わせる設定だ。人々は恐怖と諦めから無力感に支配され、ただ受け入れる。やがて小説が目の敵となり、本や図書館が焼かれる。ここは近未来小説『華氏451度』が思い浮かぶ。

「わたし」が書く小説の中でも突然、タイプライターが壊れ、主人公はそれを自由に打てなくなってしまう。声と言葉を失うのだ。

「彼女はただ、泣くこともできないくらい深く哀しんで透明な体液を一粒あふれさせただけだった」。人々がもの言わぬ存在になった国。これはフィクションなのだろうか。

大阪市中央区 河田めぐみ(60)