【話の肖像画】ジャパネットたかた創業者・高田明(72)(10) 退職…実家のカメラ店へ(1/2ページ) - 産経ニュース

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話の肖像画

ジャパネットたかた創業者・高田明(72)(10) 退職…実家のカメラ店へ

前夜の宴会を撮影した写真を、朝食会場で販売
前夜の宴会を撮影した写真を、朝食会場で販売

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《昭和48年、2年間勤めた阪村機械製作所を辞めた》


会社に不満があったとか、覚悟を決めて別の目的に進むとか、そういった理由はありませんでした。ただ幼なじみに、「いっしょに翻訳の仕事をしよう」と誘われ、軽い気持ちで辞めてしまったのです。アルバイトの延長のように入社し、海外勤務までさせてもらい、会社には感謝の気持ちしかありません。辞める直前、社長室に呼ばれたので「怒られるな」と思っていたら、「阪村で働いてよかった、と思うときがくればそれでいいよ」と言ってくれました。

社長にはジャパネットを始めてから、何回かお会いしました。亡くなられたときはお別れの会にも出席させていただいたのですが、その後、奥さまからいただいた手紙に「闘病中は高田さんをテレビでみるのを楽しみにしていました」とつづられており、改めて感謝の気持ちが深まりました。

幼なじみと始めた翻訳業ですが、うまくいくわけもなく、半年もすると貯金も尽きかけた。彼とは「やはりお互いに別の仕事をやろう」ということになったのですが、僕に将来の計画があるはずがない。1人になり、大阪・寝屋川のアパート近くの喫茶店でジュークボックスにコインを入れ、渡哲也さんの「くちなしの花」をかけたとき、故郷・平戸に戻ることを決心しました。


《実家のカメラ店で働き始める。観光写真の撮影と販売が仕事になった》


九州の観光地の隆盛は昭和30~40年代に新婚旅行の中心地になった宮崎、47年の本土返還でブームとなった沖縄、そして異国情緒の長崎、と一定のサイクルで循環するんです。僕が実家に戻ったころは長崎などの西九州への観光旅行がすごく盛んになっていたときで、1年間で90万人近くの観光客が平戸に押し寄せていました。まだ平戸大橋が架かっておらず、フェリー待ちの車が何キロも行列を作っていた。昔からある旅館は4年後の平戸大橋の完成による観光客の増加を見込んで、大きなホテルにどんどん建て替わっていました。