「この曲も亜星さん」CM、アニソン…マルチな活躍

TBSドラマ「寺内貫太郎一家2」の出演者らと写真に納まる小林亜星さん(前列中央)=1975年3月、東京都内
TBSドラマ「寺内貫太郎一家2」の出演者らと写真に納まる小林亜星さん(前列中央)=1975年3月、東京都内

「曲作りは道楽。道楽を仕事にできて幸せだった」-。半世紀以上にわたり人々の記憶に残る曲を発表し続けた小林亜星さん。短時間で印象に残り、誰もが口ずさめるメロディーは数千曲に上る。ユーモラスな味を出した俳優活動と合わせて、マルチな活躍は「テレビ時代」とともにあった。

大学卒業後に勤めた製紙会社を短期間で辞め、本格的な作曲活動を始めた小林さん。創作の幅は広かった。わずか数十秒で勝負するCM曲。200万枚を超す大ヒットを記録した「ピンポンパン体操」は童謡。日本レコード大賞を受賞した都はるみさんが歌う「北の宿から」は演歌の王道だ。30代の頃は1日に3曲のCM曲を作ることもあったという。

「この曲も亜星さんか」と驚かれることもしばしばあり、「夢の中で曲ができたことも3度。そのまま譜面にしたら、先方に『さえてますね』と言われたこともあるね」。令和元年の産経新聞のインタビューに笑って答えていた。

自身を「吞(の)んべえ」と語るなど大の酒好きで、酒を飲むため夜には曲を作れず、早起きして作ることも多かったという。

視聴者の記憶に残る俳優でもあった。「寺内貫太郎一家」の頑固で人情深い「雷おやじ」役は、俳優デビュー作とは思えないはまり役に。100キロ超の巨体からにじみ出る風格とユーモラスな雰囲気は、小林さんの人柄そのものだった。

膨大な曲と俳優業。どちらもテレビとは切り離せなかった。小林さん自身、「私が育ててもらったのは、テレビの創成期から見られなくなり始めるまで。一番ありがたい時期に仕事をさせてもらった」と語っていた。昭和から平成にかけ大衆音楽を彩ってきた小林さん。〝巨星〟がまた一人姿を消した。

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