現職のアメリカ大統領として平成28年5月、初めて被爆地、広島を訪れたオバマ元米大統領。被爆した米兵捕虜の研究をしてきた森重昭さん(84)との抱擁は、歴史的な場面として高校の教科書にも掲載された。かたわらで見守っていた森さんの妻、佳代子さん(78)は夫を支えながら、自らも被爆者として平和を願う活動を続ける一人だ。コンサートでレクイエムを歌い続けてきた。
歴史などの教科書に
夫婦がオバマ氏の広島訪問の場に立ち会うように求められたのは、訪問の数日前のことだった。米大使館から「献花式に出席してくださいますか」という連絡があったのだ。
詳しいことは聞かされず、「何どうなるのか、全く見えていない状態でした」と話す佳代子さん。当日、周囲は、黒などのダークスーツや礼服ばかりだったが、夫婦はともに淡いブルーグレーの服装だった。
周りとは異なる服装を選んでしまい、佳代子さんは「ショックだった」というが、それがかえって、森さんとオバマ氏の抱擁を印象的なものにする演出にもなった。
抱擁のシーンを後ろの席で見守っていた佳代子さんは「ただただ、ありがとうございましたという気持ちでした」と振り返る。
ヘッドホン越しに通訳されて流れてきたオバマ氏の演説は、森さんの功績をたたえる内容だった。
森さんは、被爆した米兵捕虜たちの足跡をたどる研究を40年以上にわたって続け、その真相をアメリカの遺族に伝えてきた。
やりとりをするためにかかった国際電話の代金は月7万円にものぼったこともある。家計のやりくりも大変で、当時、何をしてるのか知らされていなかった佳代子さんは「やめてください」といってしまったこともあったという。
父を誇りに
佳代子さん自身も被爆者だ。3歳で爆心地から約4・1キロ離れた草津浜町(広島市西区)の自宅の玄関で被爆。佳代子さんの父親の増村明一(めいいち)さんも国民学校の教官をしていて被爆した。
その後、父は昭和26年に広島市議になり被爆者援護に尽力。医療給付の対象拡大などのために何度も上京し、陳情を繰り返したという。外出時は必ず長袖を着ていた父が、このときは体を張って訴えた。
「国の役人たちに両手を広げてケロイドを見せながら訴えていたそうです」
その後、胆管がんが発覚し、昭和43年に53歳の若さで亡くなったが、佳代子さんには後悔していることがある。
父から直接、被爆のことを聞いたことはなかったが、父は顔や首、胸元、両手をやけどしており、ケロイドが残っていた。
子供のころの佳代子さんは「魚をおろしたような分厚いケロイドが気持ち悪くて嫌だった」という。そのことを振り返り「今でも父に申し訳ないと思う」と話していた。
レクイエムを歌い続け
オバマ氏の広島訪問後、ほどなくして肺がんが発覚した佳代子さん。手術はしたが、ショックは大きかったという。
それでも、自身の支えにしているのは、毎年夏に世界平和記念聖堂(広島市中区)で行ってきた原爆犠牲者追悼のコンサートだ。
世界三大鎮魂歌の一つであるフォーレ作曲の「レクイエム」を歌い続けている。母校であるエリザベト音大(広島市中区)の卒業生らが鎮魂のために歌ってきた曲。一時途絶えていたが、平成16年に復活させたが、佳代子さんはその中心を担った一人でもあった。
昨年と今年はコロナ禍で中止となったが、原爆犠牲者への祈りを届けたいと強く願う佳代子さんは「死ぬまで続けたい」と話す。
オバマ氏の広島訪問の前には、森さんの取り組みを紹介した米ドキュメンタリー映画も制作された。監督のバリー・フレシェット氏の伯父が、亡くなった米兵の親友だったという。
タイトルは「灯籠流し(Paper Lanterns)」。このタイトルは佳代子さんがフレシェット氏に、川に名前を書いた灯籠を流して追悼するという話をしたことがヒントになったという。
森さんは今、長崎で被爆したオーストラリア兵の調査を続けている。佳代子さんはレクイエムを歌い続けることがライクワークとなっている。ともに支えあいながら二人三脚で続ける平和の歩み。
佳代子さんは「ここまで本当に大変でした。でもこれからも、こうした活動は続いていくんでしょうね」と話し、微笑んだ。(嶋田知加子)