長野県須坂市で製糸業で身を起こし、発電所を作るなど地域社会にも貢献した製糸王・越(こし)寿三郎(1864~1932)。実業家の渋沢栄一とも親交があったが、世界恐慌で一瞬にして閉業に追い込まれ、自身も病に倒れた。渋沢が新一万円札の肖像に選ばれ、大河ドラマの主人公にもなった今年、改めてその生涯に光を当ててみたい。
従業員6千人超
須坂市民の憩いの施設である臥竜公園には越の胸像がたたずむ。また、息子のために建てた「旧越家住宅」は国の登録有形文化財として内部を公開。今年は中止となったが夏の風物詩「須坂カッタカタまつり」は製糸工場の音を由来とし、越が作詞・野口雨情、作曲・中山晋平の名コンビに依頼した須坂小唄が歌われる。今も足跡は健在だ。
生糸・絹織物は、外貨獲得に重要な産業だった。須坂でも江戸時代から養蚕が行われていたが、明治5年に官営の富岡製糸場(群馬)が操業すると、2年後には水車の動力を使った工場が登場。品質安定と大量納品を目的に結社ができ、富岡や岡谷・諏訪(長野)と張り合った。越らは18年に新結社「俊明社」を設立し、蒸気機関を取り入れるなどして業績を伸ばしていった。
大正14年には、独立して個人事業で山丸組を設立。養蚕にも力を入れ、大宮(埼玉)や安城(愛知)にも工場を建て、最盛期の従業員は6千人を超えた。関連で設立した信濃電気は後に中部電力に、桑の肥料を作る会社は後の信越化学工業になった。