勇者の物語

自分で作った球団育てる「親の意地」 虎番疾風録番外編244

ドラフト1位で指名された三沢高・太田幸司投手(左から2人目)の近鉄入団発表
ドラフト1位で指名された三沢高・太田幸司投手(左から2人目)の近鉄入団発表

■勇者の物語(243)

苦節30年。ようやくつかんだリーグ優勝。次々に胴上げされる猛牛戦士たちを、佐伯オーナーは目にいっぱいの涙をためて見つめていた。

佐伯勇、明治36年3月25日生まれ、当時76歳。昭和24年の球団創立と同時にオーナーに就任。「悲劇のオーナー」と呼ばれていた。

「悲劇かぁ…。そりゃぁ、いろいろあったよ。投げだそうと考えたときもあった。でも…」と佐伯は言葉を詰まらせた。

24年、佐伯は球団創立の準備委員会を作らせ、大リーグ視察のため米国へ渡った。ヤンキースタジアムで初めて見たメジャーリーグ。4万人の大観衆が歓声をあげていた。「日本で球団を作ってもやっていける」と確信したという。だが、現実は甘くはなかった。

近鉄沿線の伊勢志摩で養殖される真珠(パール)から、「パールス」の愛称で誕生した近鉄はとにかく弱かった。万年Bクラス。30年代から40年代前半はオープン戦の日程も、他球団のスケジュールを聞き、空いている日に頼み込んで試合を入れてもらっていた。それでも他球団からは「開幕前に近鉄と試合して負けると、シーズンに入ってしばらくショックが尾を引くからなぁ」と敬遠されていたという。

33年に現役時代「猛牛」の異名をとった千葉茂を監督に招聘(しょうへい)。チーム名を「近鉄バファロー」に変更。だがまだ弱い。地方でゲームを主催する際も興行主から「商売にならん」と買ってもらえず、「赤字が出たときには球団が負担しますから」という条件でやっと開催にこぎつけたこともあった。

そんな近鉄が43年に知将・三原脩監督を招聘してから徐々に変わり始め、44年のドラフトで太田幸司(三沢高)を指名し、球団の人気も急上昇。そして48年オフに阪急の監督を勇退したばかりの西本幸雄を招いた。自分で作った以上、育ててみせる。佐伯オーナーは「親の意地かな」といって言葉を締めた。

午後8時、約1万人のファンが待つ日生球場で祝勝会が行われた。

「この優勝は長い間、弱い近鉄を応援してくださった全国のファンの皆さまの声援のおかげです!」。マイクを手にした佐伯オーナーの〝晴れ姿〟だった。(敬称略)

■勇者の物語(245)

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