本年は武田信玄生誕から500年の記念の年である。戦国の名将として名高い信玄は、1521(大永元)年に生まれ1573(元亀4)年に陣中で没した。上杉謙信との川中島の戦い、徳川家康に勝利した三方ケ原の戦いなど、信玄は生涯をかけて戦い、現在の山梨、長野両県を中心に、関東、北陸、東海におよぶ広大な範囲に領土を広げた。
信玄が大きな領地を防衛できた秘密には、効率的な城の使い方があった。信玄自身は平地の館城(やかたじろ)で、甲府市にあった躑躅ケ崎館(つつじがさきやかた)を本拠にした。将軍の館を手本にした信玄の館城は、「守護」としての正統性を象徴した。その一方で、上杉氏や北条氏、徳川家康や織田信長といった敵と接した領国の境目には、強力な軍事要塞を建設し、敵が一歩も武田領に入れないようにした。
領国の外縁部に強力な城を築いて守れば、敵は武田領内に入れない。敵の動きを即座に伝える光通信情報ネットワーク「狼煙(のろし)台」を張り巡らし、軍勢の高速移動を実現した街道「信玄棒道(ぼうみち)」を整えて、前線の城が敵を食い止めている間に信玄がすばやく駆けつけて敵を撃退した。領国境の要塞が鉄壁であれば、国中の武士たちは自分の居城の軍事機能を高度化する必要もなくなった。