あの日の取材、刻まれた思い 雲仙・普賢岳火砕流30年 本紙元記者が振り返る

その後3回、現地を訪れた。

最後に訪れたのは7年、阪神大震災の後。復興の過程で必要なことを火砕流惨事の被災地から学ぶ、という趣旨の取材だった。地元の精神科の医師による心のケアの取り組み、仮設住宅などに移ったことによって崩壊したコミュニティーをどう再構築したか―などを、生活面での連載「被災地からのリポート」の中で取り上げた。

震災の被災地・神戸で生まれ育った私にとって、火砕流惨事の取材経験がさまざまな場面で震災被災地の取材に生かされたと感じている。生活者の視点で考えること、生活の再建がなされない限り、災害は続いていると考える視点だ。

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前後するが、火砕流惨事から1年のときの取材で、消防団員の夫=当時(31)=を亡くした女性から話を聞くことができた。幼い長女や次女から「お父さんは?」と聞かれることが一番つらかったといい、「お空の上にいるから一緒に住めないのよ」と話してきた。

話を聞かせてもらった前月、ボランティアから東京ディズニーランド(千葉県浦安市)に招待されたとき、乗っていた飛行機が雲の上に出た。窓の外を見ていた長女から「お父さん、お空の上にいるんでしょ?」と聞かれた。女性は「もっと高いところにいるのよ、とこたえるのが精いっぱいでした」と振り返り、こう話した。「主人が好きだったこの町を私も一生、愛し続けます」

女性は夫を亡くしたその翌月に三女を出産した。あの赤ちゃんも、いまはお母さんになっているかもしれない。そういう歳月が流れたのだ。

(大橋一仁)

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