日曜に書く

論説委員・別府育郎 「心を踊らせてあげたい」

神崎一人さんと知り合ったのは、東京・中野のスナックのカウンターだった。

座り姿の背筋の美しさに見惚(ほ)れていると、ママの妹、ジャズシンガーの森サカエさんに「かんちゃんは元日劇のトップダンサーでね、昔はモテてモテて、モテまくったんだ」と紹介された。当時の写真をみると、長い黒髪にエキゾチックな風貌が、さもありなんと思わせた。

店はなくなったが、改めて話を聞きたくなり、会った。

日劇

昭和15年8月、和歌山県新宮市で生まれた。21年12月、南海地震で自宅が倒壊した。自身は家を飛び出したが、姉を亡くした。両親は瓦礫(がれき)の下から助け出された。住む家をなくして親類を頼り、神奈川県横須賀市に移った。中学卒業後、役者を志して劇団に入ったがエキストラばかりに嫌気がさし、ダンス教室に通ううちに日劇の募集を知った。試験に合格し、35年の「秋のおどり」で初舞台を踏んだ。

1日3公演に稽古も含めて朝から晩まで踊り続け、有楽町駅の階段がつらかったが、充実していた。日舞からスパニッシュまでを極め、ダンシングチームのセンターに立ち続けた。会場はいつも満員だった。23歳のときにひどい二日酔いで舞台に立ち、「タコ踊りみたいな」自らの醜態が許せず、70歳で再び飲み始めるまで酒を断った。確かに女性にはモテたが、結婚には至らなかった。

時は移ってレビューから客が離れ、日劇は56年、その幕を閉じた。最後の公演を終えて「踊りはもうやめよう」と、それまで手にしたトロフィーや賞状は全て3階のロッカーに残したまま後にした。日劇の解体とともにそれらも瓦礫と化した。

ねむの木学園

40歳だった。

さまざまな誘いを断る中、姉弟役などで共演を重ねた女優の宮城まり子さんから「子供たちにダンスを教えてほしい」と頼まれた。宮城さんは肢体不自由児らのための「ねむの木学園」を静岡県内で始めていた。「子供は好きじゃないし、中学校しか出ていないから学校で教えるなんて無理」と断ると、宮城さんは「あら、私もよ」といい、なぜ神崎さんなのか、こう続けた。「福祉は文化なの。文化は一流じゃなきゃ」

この口説き文句で「やってみようか」と気持ちが傾き、最初の稽古後に聞いた女子生徒の言葉が40年に及ぶ学園でのダンス教師を続けさせた。手足が不自由な彼女は「私は皆みたいに踊れないから、今夜、夢の中で踊るの」と話した。「体は不自由でも、心は自由なんだ。だから心を踊らせてあげたい」。感動が決意を生んだ。