朝晴れエッセー

病院のピアノ・5月16日

その日私は病院のロビーにいた。

先日の緊急入院ではあれこれと検査があり一旦退院、今日は手術日が決まるかもしれない。

ロビーにはピアノが置いてあり、ときどき演奏がされている。この日も静かに曲が流れ、私は待ち時間用の本を開いた。

が、ふと懐かしいメロディーに気をとられ、それが『この広い野原いっぱい』と気づいたとき、思わず涙があふれた。

若き日に好きな人からもらったドーナツ盤のレコード。その曲だった。友達のままそれぞれを生きて五十数年の時が流れている。私は2人の子を育て、夫を見送り、一人暮らしがもう長い。

演奏が次の曲に変わるとき、音を立てずに拍手をするとマスク姿の奏者は気づいて目礼をしてくれた。ロビーにはいくつかのテーブルとそれを囲む椅子がある。

80代の認知症のお姉さんと付きそう妹さん、お母さんと50代の男性、高齢のご夫婦など、少しの時間を過ごしては去っていった。その人たちにもピアノは優しく響いていたのだろう。

それぞれの人がそれぞれの思いで聴くピアノ。病院であればなおさらのこと。

手提げ袋に入れた診察の呼びベルが鳴った。濡れた目は恥ずかしい。そっと拭いて席を立ち診察室に向かった。

手術日が決まり病院を出ると桜は満開、欅(けやき)は早くも柔らかい新芽を出している。

さっきの涙が手術への不安を少しだけ流し去ってくれたのかもしれない。私は誰かに励まされている気がして、家々の花を眺めながら帰宅した。


高島泰子 73 川崎市宮前区