日曜に書く

論説委員・山上直子 佐藤政養と坂の上の雲と

「勝先生、わしを弟子にして仕(つか)ァされ」

司馬遼太郎のベストセラー「竜馬がゆく」で、坂本龍馬が勝海舟に初めて会い(実は暗殺するために訪れていた)、弟子入りを志願する場面だ。もちろん小説だが、それよりさかのぼること8年前、同じく弟子となったこの人の場合はなんといったか。

庄内弁かそれに近い言葉だったろう。知られざる明治期のテクノクラート(技術官僚)、佐藤政養(せいよう)(与之助(よのすけ)、1821~77年)。出羽国遊佐(ゆざ)の農家の出身で、勝海軍塾の塾頭などとして活躍した。勝の代理を務め、龍馬の政治活動を陰で支えたこともあったという。

知られざる才人

「ぜひ読んでください」と届いたのが「佐藤政養とその時代―勝海舟を支えたテクノクラート―」(山形県遊佐町発行、企画課企画係0234・72・4523)だった。町の合併65周年を記念した本で、著者は司馬遼太郎記念財団(大阪府東大阪市)で学芸部長などを務め、取材で度々お世話になっていた増田恒男さんである。

さて佐藤政養とは、聞きなれない。ところがページを開くと先の勝海舟や龍馬ら幕末の有名人が次々と登場して驚いた。

さらには神奈川台場(勝が設計し政養が補助した)や、いずれも国の史跡に指定されている兵庫県の和田岬砲台、西宮砲台、舞子台場といった名称が目次にずらり。台場というと、東京湾臨海副都心のスポット、お台場を連想するが、もともと海防のために備えた砲台のことで、政養はその設計や監督指導に当たった技術者だった。

維新後は鉄道助(てつどうのすけ)(次官)となり関西の鉄道敷設にも力を注いだとある。これはちょっとした人物ではないか、と読み進めるうちに、幕末・維新の時代に引き込まれていった。

勝海舟からの手紙

まずは政養という人、当時にしては遅咲きである。江戸に出たのは33歳だった。「砲術」の道を志し、勝の私塾の門をたたいて蘭学や測量、砲術を学んだ。優秀で人柄も信頼されたのだろう、勝の右腕的存在になっていく。実は政養の方が勝より2歳年上だったのだが。

「勝や龍馬の陰であまり知られていませんが、間違いなく近代日本の成立に大きく貢献した人物です」と増田さんはいう。

確かにこのころ、そうした人は少なからずいた。まさしく、司馬が勃興期の明治日本を描いた小説「坂の上の雲」の時代である。あとがきに、維新で日本人は近代的な「国家」というものを持ったが「社会のどういう階層のどういう家の子でも、ある一定の資格をとるために必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも官吏にも軍人にも教師にもなりえた」とある。

そうして政養は技術者となり、勝海軍塾で塾頭を務めることになったのだ。そこには龍馬もいた。今回、勝が政養と龍馬2人にあてた新たな書簡が確認されている。実は、勝と龍馬間の手紙は1通も残っておらず貴重な資料だそうだ。

一方、勝と政養はさかんにやりとりをした。大政奉還のあった慶応3年、政養が勝にあてた手紙には京都の緊迫する状況を知らせるとともに「龍馬も旅宿にて害され候」とあった。簡潔だが、龍馬が京都・近江屋で暗殺された知らせであった。

官僚の志

維新の後、明治政府で政養は鉄道助の役職を得て新橋―横浜間の鉄道敷設に尽力する。関西の鉄道敷設でも事務管理者に任命されるなど活躍した。明治9年、病を理由に辞して東京に戻ったが翌年病没。57歳だった。

考えさせられる話もあった。本人にとってはあずかり知らぬことだが、政養について戦前の横浜で「横浜開港の恩人」などと顕彰されたが、戦後はまったく忘れ去られたという。郷土史家が喧伝(けんでん)した功績の論拠が乏しく過大評価とされたからだが、当時は新聞で大きく報じられ、伝記が発行されるなどした。

捏造(ねつぞう)が時を経て独り歩きをすることがある。その検証や修正は難しい。そんな顕彰などなくても政養の事績に変わりはなく、増田さんは「適正な評価こそ政養自身が望んでいること」と話す。

師の勝を支え、兄弟子として後輩の龍馬を支え、自らは技術官僚として日本の近代化に尽くした。教育者、学者でもあった。遠い昔のようだが、せいぜい140年ほど前のことだ。官僚とは何か、学ぶべきことがあるとその生涯に思う。(やまがみ なおこ)