巻末にはそれぞれの場面に描かれているものについての詳細な説明があり、絵と対比しながら読むとまた新たな発見がある。(翻訳家・さくまゆみこ)
≪翻訳作品賞≫『ウサギとぼくのこまった毎日』ジュディス・カー作・絵こだまともこ訳
学校で飼われている白ウサギのユッキーを、「ぼく」はひそかに「のろいのウサギ」ではないかと思っている。なぜならこいつをうちで預かることになって以来、物事がうまく行ったためしがないのだ。散歩に連れ出せばイヌに襲われる、お父さんの仕事はおじゃんになるし、妹は風邪をこじらせる。こんなことではクリスマスプレゼントにあてにしている自転車ももらえないかも…。好きでもないウサギの世話を押しつけられた少年の視点で、人の迷惑も意に介さない困ったウサギと家族のてんやわんやの毎日がユーモラスにつづられる。
『ヒトラーにぬすまれたももいろうさぎ』の作者の最晩年の、今度はほんもののウサギの物語である。(日本女子大学教授・川端有子)
≪翻訳作品賞≫ありがとう、アーモ!』オーゲ・モーラ文・絵三原泉訳
このあったかさは、どこから? 充(み)たされたこの「たっぷり感」は? 誰かと何かを分かち合うことを喜びとした人に許される、とびっきり上質な感覚から来るものかもしれない。作者の両親はナイジェリア出身。女王という意味のアーモをここでは、おばあちゃんというような意味で使っている。今日もアーモは得意なシチューをたっぷり作る。香りが漂い始めると、みんながやってくる。彼女は誰にでも自慢のシチューを分けてやる。だってそのほうが、よりおいしいから。しかし気前よく分けてしまった結果、アーモが食べる分が、ない! いや心配ご無用。今度はみんなからアーモにお返しが。
登場する警官や医師らしきひとが女性で、今更ではあるが、さりげなくジェンダーフリー。気前も気持ちも、いい本だ。(作家・落合恵子)
≪ニッポン放送賞≫『うしとざん』高畠那生作
牛「が」ではなく、牛「に」登る。なぜ? 「そんなこときいちゃいけません」と作者。汗だくで牛の背中に辿(たど)りついたら、自転車借りて走ってもいい。「めしや」で昼飯食べてもいい。しかし、登ったらおりなくっちゃ。しっぽをつたっておりて、「また きがむいたときに やりましょう」。とぼけていて、ぶっとんでて、けれどどこか哀愁なんてぇものも見え隠れして、などという説明はいらないな、きっと。
ところで、あなたが最近、腹の底から笑ったのはいつ? 去年の春浅い頃から、笑いが明らかに減った。私たちが構成員たるこの社会がいま求めているのは、ちょっと力を抜いた、高畠ワールドかも。貴重で奇妙な、ノンセンス風味が、クセになりそう。(作家・落合恵子)
≪JR賞≫『プラスチックモンスターをやっつけよう! きみが地球のためにできること』高田秀重監修、クリハラタカシ絵 クレヨンハウス編集部編
その装丁からポケモンの類いかと思いきや、この「プラモン」は読み進めるうちに恐ろしく不気味なモンスターに変身する。海の中で波の力、紫外線によって細かくなり、さらに目に見えない大きさとなっても消えない。海の生物の体内に入り、それらを食べる人間に行き着く。妊婦の胎盤で見つかったという報告もあり、胎児の成長や脳の発達への影響も心配される。
「とりつく」「えさのふりをする」「毒を出す」技を繰り出すこの厄介なモンスターは、さらに有害な物質を身にまとい「パワーアップ」もする。のんきに構える大人を尻目に立ち上がった世界の子どもたち。付属のチャレンジシートでプラモン退治に誘う、行動の促しがあるのも力強い。(大妻女子大学教授・木下勇)
≪美術賞≫『つかまえた』田島征三作
川でやっと大きな魚をつかまえた少年が、しばらくしてその魚が死にかけているのに気づき、今度はその魚を生かそうと奮闘する姿を描いた絵本。少年の心の動きや、少年と魚の命が呼応するさまが生き生きと表現されている。
「手の中で ぬるぬる/にぎると ぐりぐり/いのちが あばれる」といった実感を伴う言葉と、ぐいぐい勢いよく描かれた絵とがあいまって、この少年と魚の命の輝きが伝わってくる。昔の子どもが日常の暮らしの中で体験したことを、今の子どもはすぐれた絵本でまず体験してみることも必要なのかもしれない。