実行委員会での決定事項は「コミッショナー指令」として発表された。
当時の野球協約には『コミッショナーが下す指令、裁定、採決ならびに制裁は最終決定であって、この組織に属するすべての団体と個人を拘束する』とある。
「江川騒動」は一気に決着-と誰もが思った。ところが、この4日後の12月26日、セ、パ両リーグ会長との三者会談のあと金子コミッショナーは「指令」を「強い要望」へ変更したのである。
「要望」には拘束力はない。言い換えれば、江川を巨人へトレードするかしないかは阪神次第-ということ。またしてもの〝変心〟に連盟担当の記者たちは金子に詰め寄った。
--22日の実行委員会で「指令」したのではないのか
「指令ではない。強い要望だ。指令だったら実行委員会を開かず、指令書1枚で済むことだ」
--委員会では「指令として受け取ってもらってもいい」と発言したのでは
「たしかにその言葉は使った。だが、今度の問題を解決するために、ボクの〝強い意志〟を知ってもらいたかったために使った言葉で、指令ではない」
この〝強い要望〟は一時、世間で大いに流行した。それにしても、なぜコミッショナーは「裁定」を一夜で覆し、「指令」を「要望」に変えたのか。
金子鋭は明治33年生まれの銀行家。当時78歳。安田銀行時代は〝硬骨のバンカー〟の異名を取り、昭和44年の「黒い霧事件」の際はコミッショナー委員会の一人として活躍。51年にコミッショナーに就任した。そんな金子が当時60歳の若造、正力亨のリーグ脱退、新リーグ結成-の脅しに屈するわけがなかった。では、なにゆえの変心だったのか。
金子コミッショナーの中で、却下の裁定と巨人へのトレードは別物ではなく〝一つの答え〟だった。ただ、それを一日ごとに発表したために変心ととられ、別の力が働いた…という疑惑を生んだ。そして指令を強い要望に変えたのは、指令では〝判例〟として残り、将来、また同じような騒動が起こる-と判断したから。これが疑問への答えだった。
強い要望への変更はさらなる〝騒動〟を招いた。阪神に不信感を持った江川が「巨人へ必ずトレードする」という〝念書〟を求めたのである。(敬称略)