勇者の物語

常套手段、協約の盲点突く戦略「新浦騒動」でも 虎番疾風録番外編216

静岡商の新浦壽夫投手=1968年(昭和43年)8月22日、甲子園球場
静岡商の新浦壽夫投手=1968年(昭和43年)8月22日、甲子園球場

■勇者の物語(215)

野球協約の盲点を突く巧みな戦略。当初、これはすべて江川の後見人である「船田事務所」の仕業-と思われていた。その根拠となる動きを時間を追って見てみよう。

◆11月21日 日付が変わった真夜中の午前0時2分、巨人・長谷川代表宅に船田事務所の蓮実秘書から「ライオンズとの交渉期限が切れたので、江川のことで話し合いたい」と電話がかかる

◆午前0時40分 東京・四谷の「ホテルニューオータニ」に関係者が集結。江川獲得工作を煮詰め、野球協約上の問題点はないかをチェック

◆午前2時30分 担当記者の幹事社へ「緊急記者会見」の連絡を入れる

◆午前7時過ぎ 東京・青山の蓮実宅に宿泊していた江川へ連絡

◆午前9時 船田事務所で正力オーナー立ち会いのもと巨人と江川が契約を交わす

◆午前9時30分 緊急記者会見

11月6日に船田中(当時は自民党副総裁)の名前で送った11球団へ指名拒否の「声明文」には「江川君の巨人志望が成就するよう努力したいと決意を新たにしている」と記されていた。

どう見ても船田事務所の主導。だが、実際は違った。協約の盲点を突くのは巨人の〝常套(じょうとう)手段〟だったのだ。

時は少し遡(さかのぼ)り昭和43年夏。巨人は夏の甲子園大会で準優勝した静岡商の1年生エース新浦(にうら)壽夫(ひさお)と、大会終了わずか18日後の9月9日に電撃契約を結んだ。

当時、新浦は韓国籍(韓国名・金日融=キム・イリュン。53年に帰化)。野球協約にはドラフトでの獲得選手は「日本国籍を有する者…」とあるのを逆手にとり、高校を中途退学させてドラフト外で契約を結んだ。争奪戦には巨人の他に大洋、東映、広島や大リーグのジャイアンツが参戦。巨人は入団後に米国へ〝野球留学〟させる-という破格の条件を提示した。背番号は「42」。

この「新浦騒動」が契機となり48年に野球協約の133条「新人選手の選択」の事項から「日本国籍を有する者」という文言が削られ『日本の中学、高校、大学に在籍し、いまだいずれの球団とも契約していない選手』と改定された。そして今回の「江川騒動」で再び巨人は133条の「在籍し…」という盲点を突いたのである。(敬称略)

■勇者の物語(217)

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