「松山」から「MATSUYAMA」へ 苦節10年、進化の過程

 10年前の2011年、19歳の少年は「マスターズ」という夢舞台にいた。初出場でアジア人初のローアマチュアに輝いた松山英樹である。ラウンド後、ツアー12勝(当時は11勝)のスティーブ・ストリッカーに「ナイス・プレー」と声をかけられた。

 「今でも覚えている。あの時は、震災(東日本大震災)があって、出場できるとは思ってなかったけど、周りのみんなに後押しされて出場した。マスターズが米ツアーへの原点…」

 当時181センチ、体重77キロとか細かった男は、夢舞台で興奮したが、冷静な目も持っていた。

 「みんなデカイ…」「ごっつい体やな」

 体格、パワーの違いを感じていた。米国で戦うには「根本的な体作りをしなきゃ」と肉体改造に着手する。14年から米国を主戦場としたが、かつて中嶋常幸プロらを指導した飯田光輝トレーナーと契約し、同行してもらった。

 ゴルフは前傾をキープさせ、細かい動きを要求されるスポーツ。体の安定感が基礎となる。体全体の筋力アップも考慮しつつ、体幹を中心に自重トレーニングなどで徹底的に下半身強化に努めた。飯田トレーナーの述懐があった。

 「『もう、いいだろ』とこちらが止めることもあったけど、彼は『まだ、いけます』と。体が強いし、とにかく熱心なんです。もちろん体の基礎となる栄養管理も徹底してやった」

 筋トレ器具はあまり使わない。だから柔軟性あるバランスのいい筋肉に仕上がった。年に1、2度帰国する。同級生の石川遼が驚いていた。

 「会うたびに、体がでかくなっていくんだ。服なんかパツン、パツンだもん」

 東北福祉大の先輩である谷原秀人はこう表現した。

 「大地からニョキっと足が生えている感じ。あの下半身の安定感はすごい」

 あれから10年。いまは100キロ前後と成長した。米ツアー選手の中に入っても見劣りしない。

 肉体改造だけではない。今年から専属コーチをつけた。1歳年上の目澤秀憲さん、米国のライセンスコーチを持つ理論派である。17年以来、優勝から遠ざかっていた。傍目にも力はあるが、勝ちきれない日々と映っていた。そんな松山が自ら決断して、初のコーチを付けた。あるインタビューでこう話していた。

 「自分が過去にやっていたこと、もう忘れちゃった部分をポンと開いてくれる存在。自分が思いつかないことを言ってくれる」

 ストイックな性格で黙々と一人でこだわりのスイングを追求してきたが、元々スキルは高い。コーチのひと言が迷い道からの突破口になったのは当然のこと。今年のマスターズで松山はこう心境を吐露した。

 「いままで自分ひとりのフィーリングでやっていた部分があって、それが正しいと思いすぎていた。(目澤コーチに)客観的な目を持ってもらいながら、正しい方向に進んでいる」

 さらにクラブへのこだわりも半端ない。日本ツアー時代、よくゴルフの中古ショップに足を運んでいた。そこで仕入れた1万円程度のクラブを試合で使ったこともある。クラブ使用契約するのはダンロップ社であるが、米ツアー参戦後、16年途中からライバル社のドライバーを使っていた。もちろん契約メーカーに許可を得たうえだが…。クラブの感覚にこだわる松山ならではの、いい意味でのわがままだった。

 「松山プロの期待に応えるためにドライバー改良に努めました」と契約メーカー担当者は開発に必死になった。その甲斐あって昨年8月の「BMW選手権」からはダンロップ社の「スリクソン ZX5 ドライバー」(ロフト9・5度)を使用。今回のマスターズもそのモデルである。

 生業はゴルフ、趣味はゴルフで、余暇もゴルフ…。人生ゴルフ漬けでマスターズ優勝という快挙を成し遂げた。『松山』から『MATSUYAMA』になった今、歩みを振り返ったら当然に思えてきた。(清水満)