「羽柴」「豊臣」…秀吉が家臣にあてた書状2点発見 兵庫・たつの市

兵庫県たつの市の旧家から見つかった秀吉の書状。羽柴時代の領知宛行状(手前)と豊臣時代の朱印状=同市龍野歴史文化資料館(小林宏之撮影)
兵庫県たつの市の旧家から見つかった秀吉の書状。羽柴時代の領知宛行状(手前)と豊臣時代の朱印状=同市龍野歴史文化資料館(小林宏之撮影)

 安土桃山時代に豊臣秀吉が但馬領主の流れをくむ家臣に宛てた書状2点が兵庫県たつの市新宮町の旧家から見つかり、同市龍野歴史文化資料館が6日発表した。2点は、覇権を確立しつつあった「羽柴」時代と天下人に上り詰めた「豊臣」時代に、それぞれ同じ人物に宛てた書状。天下統一を進めていく秀吉の一側面がうかがえる貴重な史料という。

 見つかったのは、天正11(1583)年8月1日付の領知宛行(あてがい)状と文禄3(1594)年10月17日付の朱印状。いずれも、但馬地方の領主だった垣屋(かきや)氏の分家筋に当たる、垣屋孫市(まごいち)という家臣に宛てて書かれた。

 領知宛行状には、羽柴秀吉が摂州菟原(うばら)郡(今の神戸市南東部)の森村200石を領地として孫市に与えることが記されている。

 また朱印状は、豊臣秀吉が菟原郡の本庄村200石について、検地をおこなった上で孫市に与えると書かれていた。

 同館が平成30年秋、江戸時代の龍野藩主・脇坂家の家臣だった旧家を調査し、家臣と婚姻関係にあった垣屋氏に関する文書が大量に見つかった。竹本敬市・元姫路大特別特任教授(古文書学)が整理・分析し、秀吉に詳しい県立歴史博物館の前田徹学芸員が2点を秀吉の書状と確認した。

 天正11年頃の秀吉は羽柴姓。「賤ケ岳の戦い」で柴田勝家を破り、大坂城を築くなど織田信長の後継者としてほぼ覇権を確立しつつあった時期。文禄3年頃は、天下統一を果たして関白を辞し、「太閤」と呼ばれるようになった。

 垣屋氏は戦国時代、但馬守護だった山名氏の有力家臣。秀吉とは敵対したのちに配下となり、孫市は秀吉に仕えた。孫市の長男は脇坂家の家臣となった。

 前田学芸員は「秀吉が天下統一を進める過程で家臣を掌握していく様子を追える史料。垣屋氏に関する一次史料としても貴重で、中世の領主が近世社会へ移行していく状況を示す好事例だ」と評価している。

 龍野歴史文化資料館では、これらの2点を含む秀吉や垣屋氏の関連資料を24日から公開する。