「ドラムをたたききった」音楽人生 村上ポンタ秀一さん 山下洋輔さんらが追悼

平成10年の取材では、「年間360日は演奏している」と語っていた村上“ポンタ”秀一さん(石井健撮影)
平成10年の取材では、「年間360日は演奏している」と語っていた村上“ポンタ”秀一さん(石井健撮影)

 今月9日、視床出血のため70歳で亡くなった村上ポンタ秀一(しゅういち)さん。歌謡曲、フォーク、ジャズ、ロックと1万4000曲以上の録音に参加し、日本が世界に誇るドラム奏者だった。豪放磊落(らいらく)だが繊細で音楽には真摯(しんし)であり続けた。そんなポンタさんの思い出を、フォークコーラスグループ「赤い鳥」のリーダーでポンタさんを世に出した後藤悦治郎(えつじろう)さん(74)と、ジャズ・ピアノの大御所、山下洋輔さん(78)に聞いた。(文化部 石井健)

重い8ビート

 兵庫県西宮市に生まれたポンタさんは幼少の頃、家庭の事情で京都の祇園の芸妓(げいこ)に預けられた。その「ポンタ姐さん」にちなんで、子供の頃からずっと「ポンタ」の愛称で呼ばれた。ここでもポンタさんと呼ぼう。

 ポンタさんは、赤い鳥の一員として昭和47年にデビュー。赤い鳥には、オーディションを受けて加わった。

 赤い鳥のリーダーだった後藤さんは、オーディションで聴いたポンタさんの演奏に驚いた。

 「当時日本で主流だったジャズマンによるドラム演奏とは全く違う、重い8ビートだった。リンゴ・スターとかスティーブ・ガットのようだったというかな。それで、『即、加入してくれ』と」

 赤い鳥は、ヒット曲「翼をください」から連想されるようにフォークコーラスグループだったが、後藤さんは「ロックの時代だった。自分たちもロックを取り入れたかった」と重いビートに惚れ込んだ理由を明かす。

 赤い鳥には、一足先にギター奏者、大村憲司(1949~98年)が加入していた。大村は後年、YMOなど多くのミュージシャンの録音や公演に参加。ポンタさん同様、日本の軽音楽の発展に大きな功績を残した。2人は、後藤さんの期待以上のロックサウンドを赤い鳥に持ち込んだ。

 「ただ、あの2人、ライブだととにかく音がでかい。しかも興に乗ると延々と即興演奏を続ける。『本番の舞台で練習するな』としかったこともある。当時の赤い鳥は、フォークじゃなくてプログレッシブロックでした」

アスリート

 後藤さんは、ドラム奏者としてのポンタさんを「足腰が鍛えられたアスリート」にたとえる。

 「足腰が鍛えられていたから、あれだけ重いビートがたたけた。吹奏楽の強豪中学で打楽器の演奏を学んだそうだから、そこで基礎がしっかりと身についたのしょう」

 毎回必ず汗だくになるほど予行演習をし、着替えてから本番に臨んでいた姿を思い出し、「これなんかも、練習着からユニホームに着替えるアスリートみたいでしょ?」。

 「そういえば、自宅でカラスを飼っていたらしいよ」と思い出して後藤さんは笑う。「自宅で漫画を読んで笑いかけたらカラスのほうが先に笑った。そんな話を詳細に語られたことがあった。音楽一筋のやつの生活はひと味違うなと妙に感心したな」

 また、後藤さんは、ポンタさんの義理堅さも忘れない。

 「世話になった先輩のライブには、欠かさず顔を出していた。そういうことは、きっちりやった人でした」

待っていたのに…

 一方、山下さんは「『次の公演はいつにしましょうか?』と、そんな話をしたのが最後だったかな。ずっと連絡を待っていたのに」と思い返す。

 山下さんは、国立(くにたち)音大を卒業後、昭和40年代に過激なフリー・ジャズで世の中をあっと言わせ、以降も日本のジャズを牽引(けんいん)してきた。

 ここ10年以上、ポンタさんに誘われてピアノトリオで、全国のライブハウスを回るライブを続けていた。

 「僕に言わせたらピアノトリオじゃなくて、ドラムトリオですな。ポンタがリーダーで、ポンタの考え方が染み渡っていた」

 実際にポンタさんがリーダーとして、出演するライブハウスなどを決め、山下さんからベース奏者の坂井紅介(べにすけ)さん(67)に連絡していたという。

 ただ、昨年以来、コロナ禍でライブハウスの出演も思うにまかせなくなっていた。それでも、山下さんはポンタさんからの連絡をずっと待っていた。

「なんだ、こいつ」

 実は、若い頃のポンタさんは、山下さんを嫌っていた。新しい芸術表現を模索してピアノを燃やしながら弾くパフォーマンスを披露する山下さんを目撃した19歳のポンタさんは、当時クラシック一辺倒だったこともあり、「なんだ、こいつ」と楽器を燃やした山下さんに憤慨。嫌悪感を抱いた。

 このため山下さんの仕事は断り続けたが、山下さんのほうは「僕はドラムが好きですから、良いドラム奏者には会いたい」とポンタさんに共演のラブコールを続けた。

 ついにポンタさんはけんか腰で共演に臨むが、すっかり意気投合。山下さんのアルバム「寿限無~山下洋輔の世界Vol.2」(56年)の録音、さらに翌57年の公演旅行にも参加した。

 「ポンタは終演後、『もっと演奏したい』と街のジャズクラブに繰り出すわけです。僕も付き合って、店で飛び入り演奏。気がつけば朝の8時だ。ポンタとは特別な間柄になりましたよ」

たたききる

 このトリオのライブでポンタさんは、「山下さんには肘や拳で鍵盤をたたく印象があるでしょうが、私は山下さんの優しい表現が好きです」と客席に話しかけ、バラードを好んで演奏した。

 山下さんは、「優しい表現で、しかし推進力がある演奏をできたドラム奏者はポンタしかいなかった。近年は、特にそういう演奏を目指していたのでは」と振り返る。

 そして、「僕と一緒じゃないとできない表現もあった。僕は、彼の最後のバンドメンバーなんです」と誇らしげに語る。

 後藤さんは、3年前に東京で開かれたイベントで顔を合わせたのが、ポンタさんに会った最後となった。

 「ああいう人はなかなかいない。ドラムをたたききったって感じでしょ? 果たして、僕は歌いきれるのだろうか? ミュージシャンとしては羨(うらや)ましい限りだと思いながら手を合わせました」

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