《中学、高校時代、歌舞伎は開店休業状態だった》
子役と大人の役の間って、もともとあんまり役がないんですよ。それに僕は父親も歌舞伎役者を廃業した、いわゆる御曹司じゃないので、なかなか役が回ってこなかった。僕は当時、子役を卒業してだんだん大人の役をやり始めていて、といっても大勢の中の一人といった並びの役しかもらえなかったけれど。ただ「萬屋(よろずや)興行」のときだけは大きな役をもらえて力をつけるチャンスだった。でも、僕はそれもほとんど経験しないうちに「萬屋興行」もなくなってしまって。
入院中の余命いくばくもない祖母から「あなたを一人前にするまで生きられなくてごめんなさい。大学には絶対に行きなさい」って言われました。僕が「なんでですか?」って聞いたら、「学校さえ行っておけば、万が一、歌舞伎役者にならずにお勤めするときでも役に立つから」って言ってました。昔のように歌舞伎役者をやるなら小学校や中学校を卒業しておけばいい、という時代ではないからね。祖母は古い人だけど、そういう先見の明がある人だった。
祖母に強く勧められたこともあり、大学は普通に受験して、日本大学芸術学部演劇学科に進学しました。バンドをやったり、ラーメン屋でアルバイトをしたり、ファッションに関心があったから洋服屋巡りをしたり、当時は歌舞伎の舞台から離れて自分の好きなことをしていましたね。アングラ演劇からメジャーな芝居までいろいろ拝見しました。
大学の授業の一環で、歌舞伎も見に行きました。憧れの勘三郎の兄さん(十八代目中村勘三郎、当時は勘九郎)とかの舞台を見ながら、また歌舞伎をやりたいという気持ちがだんだんと大きくなっていったようです。19歳のときに「やはり歌舞伎で生きていきたい」と父親にお願いして、歌舞伎の世界に戻りました。
大学3年生のころから、歌舞伎の仕事も少しずつ入るようになり、「若き日の信長」という新作歌舞伎の群衆役をいただきました。稽古をやっていると、言葉を交わしたこともない勘三郎の兄さんが突然、僕のほうを見て「はいっ、君」って。なんか怒られるのかなと思っていたら、「あんた、とってもいいよ。その気持ちでやりなさい」ってほめられた。
群衆の一人だけど、一生懸命やればお客さんも1人か2人はちゃんと見ていてくれるかもしれないって信じながらやっているときだったから、本当にうれしかったです。ここから勘三郎の兄さんとの付き合いが始まりました。
《平成6年、祖母・小川ひなが死去。89歳だった》
やはり「萬屋」という一家の大黒柱でしょう。その人がいなくなってしまったのだから大変でしたよ。臨終の際に、祖母は僕の両親に「せっかく襲名したけれど、獅童を歌舞伎役者にするのは諦めなさい。この世界(歌舞伎界)に父親がいないのは首のないのと同じこと」と言ったそうです。親から子へと芸が引き継がれる歌舞伎の世界では、父親という後ろ盾は何よりも重要なんですよ。でも、僕は歌舞伎役者を諦めなかった。(聞き手 水沼啓子)