日曜に書く

論説委員・中本哲也 ハンちやんとアンノーさん

文春伝説

丸谷才一さんに「文春伝説」と題するエッセーがある。

と、書き出したからには「伝説」のあらましを紹介するのが必然だが、下手に書いて丸谷随筆の味わいと品の良さを著しく損なうのは避けたい。引用、抜粋に頼ろう。「猫だつて夢を見る」(文春文庫)から。

《すくなくとも戦後の一時期、文藝春秋において、新入社員歓迎会の際、古参の社員が新人に強要して裸踊りをさせる(もちろん男子社員のみ)といふ風習があつた、といふ噂を耳にしたことがあるからだ》

《事柄が事柄だけに確たる證拠はないが、その風聞ないし伝説はいろいろな方面からわたしの耳に達してゐた》

《バーのマダム某女の談。

「ケンゴさんとハンちやんが相談して、決めてあつたんですつて。ええ、新入社員だつたの。昭和二十八年の春。それで、向うが裸になれつて命令するちよつと前に、こつちから先に脱いで、歌つて、踊つて……といふ話なの。そしたら、厭だ厭だと言ふのを裸にするのでなくちや詰まらない(笑)といふことになつて、翌年から中止ですつて。いいえ、ケンゴさんだつて、ハンちやんだつて、自分の口からそんなこと言ふもんですか。やつぱり恥しいもの。人から聞いた話。でも、その二人が社長と専務なんて、おもしろいわね」》

半藤一利さんが1月12日に亡くなった。

不謹慎だとは思うけれど、訃報を聞いて真っ先に浮かんだのは、新入社員歓迎会で裸踊りをする「ハンちやん」だった。

平成の初めに、半藤さんに取材する機会が2度あった。1度目は電話取材で、直接会ってはいない。

夏目漱石の長女、松岡筆さんが元年7月に死去した際、「追悼」の記事を書くために松岡家に電話した筆者に、半藤さんが応対してくれた。

記事に半藤さんは出てこないが、筆さんの四女で半藤さんの妻、未利子さんら親族の談話を驚くほど的確に引き出してくれたのを覚えている。

翌年秋、隅田川の再生をテーマにした企画では、東大ボート部OBの半藤さんに、今度は直接会って話を聞いた。

隅田川の今昔とボートや大相撲、遊芸文化とのかかわりを紐解(ひもと)き、「隅田川をもう一度、ボートマンのふるさとにしたい」と語った。「文春伝説」を最初に読んだのは、それから2、3年後のことだ。