村長の10年 東日本大震災

修羅場も村民のため耐えた 飯舘村前村長・菅野典雄さん

【村長の10年 東日本大震災】修羅場も村民のため耐えた 飯舘村前村長・菅野典雄さん
【村長の10年 東日本大震災】修羅場も村民のため耐えた 飯舘村前村長・菅野典雄さん
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24年間、村長室にかけていた「公正無私」の掛け軸を昨年10月に下ろした。今は執筆活動を始めている。書くことは山のようにある。誰も経験したことのないような原発事故に村長として立ち向かったのだから。

平成23年3月11日の東日本大震災。福島県の山間部にある飯舘村では電気、電話、水が止まったが、南相馬市などの津波避難者を1千人以上受け入れた。

翌日、東京電力福島第1原発事故が起きた。30キロ以上離れている村は大丈夫だと思っていた。だが、15日ごろ、放射性物質を含んだ雲が村の上空を通過。農村の命ともいえる山河や農地が汚染された。

4月7日、当時の福山哲郎官房副長官と首相官邸で対面した。10日にも福島市の知事公館で面会した。

「ゴーストタウンにしないためにはどうしたらいいか」

そればかり考えていた。だが、福山氏からは1カ月以内に村民全員を避難させる「計画的避難」を告げられた。

枝野幸男官房長官(当時)が4月11日の記者会見で計画的避難を発表すると、村民に不安と混乱が広がった。13日に開いていた政府の避難計画を伝える村民との座談会の途中にこんな情報が入ってきた。

「政府が、10年20年は住めないと言っている」

怒りで言葉が震えた。村民の前で泣いた。涙を見せたのは後にも先にもこの日だけだ。

原発の恩恵はほとんど受けていない。約6千人の小さな村。原発事故との長い闘いの始まりだった。

平成8年、49歳で村長になった。酪農家からの転身だった。「平成の大合併」では、近隣市町村との合併をしないことを選択し、独自の村づくりを進めた。

村民なら分かる「までい」という方言。「丁寧に心を込めて」という意味を持つ言葉から、「までいライフ」を考案した。

「ある意味田舎の開き直り。東京や都会を追いかけても仕方ない。飯舘村には飯舘村のよさがある。ないものねだりより、あるもの探し」

そして、「日本で最も美しい村」の一つにも選ばれた。山間部の過疎の村が、きらりと光った。