ぼくは東大史料編纂(へんさん)所に勤務していて、「歴史資料=史料」の読解を仕事としています。史料にはニセモノもあり、史実と異なる内容をわざと盛り込んだものもある。ですから、ナマの史実を伝えてくれる史料が、歴史学的に価値が高いと評価できます。このコラムでも何回か述べたと思いますが、それが「古記録(古人の日記)」であり、「古文書」なのです。作者の意図が容易に混入する『吾妻鏡』などの歴史書や、文学的な効果を伴う『太平記』などの軍記物語は、歴史学の見地に立つと、確実性の観点から、信頼度が落ちるわけです。といっても、たとえば鎌倉幕府の研究には、吾妻鏡は必要不可欠なのですが。
このコラムも長くなって、少し目先を変えたい、と思い立ちました。そこで、ここからしばらくは、ぼくの本務である古文書の話をしてみようと思います。古文書抜きに日本史は語れないわけで、なるべく分かりやすく、興味を持っていただけるように、叙述していきますね。
そもそも古文書は、誰かが、誰かに、ある内容を伝達しようとするから作成されます。つまり古文書には差出人のA、受取人のBがいるのです。ここがものすごく大事。
さて、ちょっと想像してみてください。あなたがコロナについて、菅義偉(すが・よしひで)首相に意見を述べたいと熱望した、ことにしましょう。それで手紙をしたためました。首相の住所を知りませんので、官邸あてに郵送した。この時、運が良ければ読んでもらえるかもしれませんが、ダメだとしても、まあ仕方ない。それで怒ったら常識を疑われます。
人気抜群のアイドルでも同じことです。ぼくがどんなに応援しているかを熱い文章にまとめて、事務所あてに郵送した。そうしたらなんと、返事が来た! これは飛び上がるほどうれしい。…でも待てよ。アイドル本人の直筆でもない限り、返事を作成したのは、マネジャーさんか、バイトの人かなあ。冷静になったら、そう考えるでしょう。