朝晴れエッセー

落ち着いて書けよ・3月7日

大学の入学試験の時期になると、亡き父の一言を思い出す。

試験当日の朝、父が玄関先で「落ち着いて書けよ」との一言を残して出勤した。父は教員で私立の女子中学校、高等学校で日本史を教えていた。

私の成績や進路については何にも言わなかった。通知表や成績表を見せても、よくやったとも、もう少し頑張れとも言わず、黙って返すのみであった。教員という立場から、能力に対して一定の思いがあったのだろう。その父が初めて発した一言が、「落ち着いて書けよ」であった。

当時の国立大学文系の入学試験は、5科目に社会が1科目加わり計6科目、2日にわたって実施されていた。初日の3時限目、数学の試験があった。大きく4問あり、ざっと目を通すと、そのうちの1問の幾何(きか)は何となくとっつきにくかった。

少々焦りを感じたとき、ふっと父の一言が浮かび心を落ち着かせることができ、次の考えがひらめいた。全問に均等に力を注ぐ必要はないのでは、1問を捨てて残り3問に集中すればよいのでは。3問については自信を持って解答することができ、無事合格することができた。

あの一言はその後の人生において窮地に陥った際にも心の支えとなった。

さて、振り返ってみると、子供たちには心の支えになるような言葉も残せていない。ただ、おやじの背中を見て子は育つというように、何事においても真剣に考え、いったん決めたことに対しては誠意をもってやり抜く態度、行動だけでも伝わっていればと思う。

森本保孝(72) 福岡県早良区