【農家の10年 東日本大震災】縁と「おいしい」の言葉に支えられ 南相馬市のコメ農家、豊田寿博さん(38)(1/2ページ) - 産経ニュース

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農家の10年 東日本大震災

縁と「おいしい」の言葉に支えられ 南相馬市のコメ農家、豊田寿博さん(38)

【農家の10年 東日本大震災】縁と「おいしい」の言葉に支えられ 南相馬市のコメ農家、豊田寿博さん(38)
【農家の10年 東日本大震災】縁と「おいしい」の言葉に支えられ 南相馬市のコメ農家、豊田寿博さん(38)
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田植えの春は緑。稲刈りの秋は黄金色。そして、次の田植えのために張った水が湖のように広がる。田んぼは四季折々の表情を見せる。だが、東京電力福島第1原発事故後、田んぼから色が奪われた。

いま、福島県南相馬市鹿島区で、離農した農家と自身の田んぼ14ヘクタールを耕している。新規就農したばかりだった震災前のコメ作りは楽しさがあった。震災と原発事故を経て再開したコメ作り。生まれ育った故郷の農地を再生させるという覚悟を持ち、田んぼに立つ。

あの日、精米所でのアルバイト中に大きな揺れに見舞われた。建物にも津波が押し寄せ、すんでのところで逃げた。翌日は消防団員として津波被災者の捜索活動に当たっていた。

「原発が爆発しそうだ」

すぐに家に戻り、家族とともに福島市に避難した。鹿島区は政府の避難指示区域にはならなかったが、コメの作付はできなくなった。田んぼの被害や放射能の影響がどれくらいあるのかも分からず、有機米はもうできないだろうとあきらめの気持ちもあった。

平成24年春。避難先から一時帰宅したとき、祖父の俊則さん(90)が田んぼを耕していたことを知った。

「草ボーボーにしてらんねべ」

俊則さんは翌年もその翌年も1人で耕し続けた。だから、周囲の田んぼが草だらけになっても、豊田家の田んぼは荒れなかった。

希望。また祖父と父と田んぼをやりたい。江戸時代から280年以上続く農家。親子3代で作る有機米は首都圏を中心に全国に顧客がいた。こだわりが強く、ときに衝突もした。それでも3人で丹精を込め、収穫し、精米して食べたコメのおいしさは格別だった。

25年4月、父の益夫さんが帰らぬ人となった。まだ55歳だった。命が尽きる直前まで、「田んぼをやりたい」と口にしていた。