若い才能も相次ぎ発掘 ジャズピアノの最高峰チック・コリアさんの知られざる素顔

お互いをたたえるチック・コリアさん(右)と小曽根真さん=平成30年10月25日、大阪市の住友生命いずみホール(撮影:樋川智昭/写真提供:住友生命いずみホール)
お互いをたたえるチック・コリアさん(右)と小曽根真さん=平成30年10月25日、大阪市の住友生命いずみホール(撮影:樋川智昭/写真提供:住友生命いずみホール)

 今月9日、79歳で亡くなった米ジャズピアノ奏者で作曲家のチック・コリアさんは、1960年代終わりから現在に至るまで最高峰のジャズ音楽家の一人だった。電気楽器を駆使するバンドも率いるなど、幅広い音楽を創造。コロナ禍の中でもオンラインでジャズ講座を始めるなど、精力的に活動していた。親日家で、ピアノ奏者の小曽根真(おぞね・まこと)さん(59)らと親交が深かった。日本の関係者が、チックさんの素顔を語る。  

(文化部 石井健)

傘寿と還暦

 チックさんはピアノ奏者にとどまらず、「リターン・トゥ・フォーエヴァー」や「チック・コリア・エレクトリック・バンド」など電気楽器を駆使するバンドのリーダーとして先端の音楽も生み出した。「ラ・フィエスタ」「スペイン」などの名曲を書いた作曲家でもあった。また、多くの後進を世に出した。日本ではピアノ奏者の小曽根さん、上原ひろみさん(41)がチックさんを師と仰ぎ、共演もしている。

 小曽根さんは、「今年、一緒に演奏旅行をするはずでした」と絶句する。チックさんの傘寿と小曽根さんの還暦を祝って、秋にピアノ2台による公演旅行を計画していた。

 「平成28年と30年に2人で公演して、『すごく楽しかった。また、やりたい』とチックが言ってくれましてね。じゃあ、次は2人の60歳と80歳の年にしようと決めていたんです」

 昨年10月、チックさんのジャズ講座にゲスト参加し、オンラインで語り合ったのが言葉を交わした最後になった。その後、出したメールに返事はなかった。「急ぎの案件じゃなかったので気にしなかったのですが、今思えば、すでに体調を崩していたのかもしれませんね」と思い返す。

「君はどう思うんだ?」

 小曽根さんがチックさんに初めて会ったのは1982年。米バークリー音楽大学の学生のときだった。学生とチックさんが出演する公演が開かれた。開演前、会場で小曽根さんが腕慣らしをしていたらチックさんが突然現れ、「そのピアノ、どう?」と質問された。「ご自身で確認しますか?」と席を譲ろうとしたら「いや、君はどう思うんだ?」と重ねて聞いてきた。

 「チックは自分で考え、決めることを大事にしていました。ジャズの即興演奏って、指の赴くままに演奏する演奏家もいますが、チックは常に自分と向き合い考えて音を選んでいました。言葉を慎重に選ぶ会話と同じ。だから、チックの即興演奏は常に確信に満ちているんです」

 レコードデビューが決まっていた小曽根さんは、初対面のチックさんに悩みを打ち明けた。「どうすれば個性が出せますか?」。「簡単なことですよ」とチックさんは答えた。「作曲をしなさい」。2年後に世に出たデビューアルバム「OZONE」は、小曽根さん自身の筆による曲で占められた。

 以来、40年近い親交だ。

 「僕が立ち止まって考えなくてはいけないとき、なぜかチックは必ず公演で日本に来てくれていた。会って、食事して、話して、たくさんのことを教わりました。『マコト、男になれ!』と叱られて、夫婦の大変な時期を乗り越えたこともあります。僕にとってチックは、師匠というよりメンター(導く人)。あるいは、親のような存在かな」

天才少女

 平成28年の演奏旅行に先立つ8年7月、小曽根さんは、東京都内のチックさんの公演で、2台のピアノで2曲だけ一緒に演奏したことがある。観客の前でのデュエットは、これが初めてだった。

 この公演のリハーサルの休憩時間、小曽根さんはチックさんが日本人の少女と一緒にピアノを弾いているのを目撃した。「とても上手。すごい子がいるもんだ」と驚いた。

 少女は、当時17歳の上原さんだった。小曽根さん同様、日本を代表するジャズピアノ奏者だが、デビューはこの7年も先のこと。小曽根さんは、少女がなぜ現れたのか分からなかった。

 「上原さんは、すでにチックさんと面識があったので、あいさつをしにいったんですよ」と振り返るのは、このとき上原さんに同行した内藤正昭さん(71)だ。当時ヤマハの社員で、海外の演奏家に楽器をPRする業務に当たっていた。

 内藤さんが、上原さんと初めて会ったときのチックさんを思い出す。

もう一つの出会い

 上原さんは財団法人ヤマハ音楽振興会が運営する音楽教室でピアノを学び、すでに大変な力量を身につけていた。振興会の幹部は、その演奏をチックさんに聴いてもらおうと考えた。そこで、内藤さんが2人の顔合わせを手配した。

 場所は、東京都内のヤマハの施設。内藤さんは、チックさんに聴かせるのならと、そこにあるピアノの調律を小沼則仁(おぬま・のりひと)さんに頼んだ。小沼さんは、チックさんが来日すると必ず指名したピアノの調律師。後に上原さんも、ステージで小沼さんを紹介するほどその腕を信頼した。25年に65歳で亡くなるが、闘病中の枕元にはチックさん、上原さんと3人で撮った写真を飾っていたという。

 内藤さんの記憶では、チックさんはソファに座っていたが、上原さんがピアノを弾き始めると腰を浮かし、立ち上がり、最後は隣に座って一緒に演奏した。このとき、内藤さんが撮った2人の写真が残っている。

 関係者によると、チックさんは振興会の幹部に「この子には余計なことを教えずに、素直に育てたほうがいい。自分もキッチン・ミュージック(台所で母親が口ずさむような音楽)で育ったから」と育成方針まで助言したという。

 そのうえ、上原さんを翌日の自分の公演に招いた。そしてなんと、この無名の女子高生を舞台袖から登場させ、観客の前で一緒にピアノを弾いて聴かせた。そのようすは映像で残っている。このとき16歳だった上原さんが、東京の日本武道館という晴れ舞台でチックさんとピアノ2台の公演を大成功させるのは、その13年後だ。

バトンリレー

 チックさんが世に紹介した若い才能は、上原さんだけではない。世界中で若い演奏家に会い、ときには自分の舞台にあげて観客に紹介してきた。

 小曽根さんは、チックさんから10歳ぐらいの日本人の少年ドラム奏者の動画を見せられたことがある。「すごいだろ、この子。今度、日本に行ったらセッションしようと思うんだ」と楽しそうに話したという。

 「チック自身も多くの先達から演奏する機会をもらい、世界に出ていく切符を手にした」と小曽根さん。

 チックさんは、ジャズの「帝王」と呼ばれたトランペット奏者、マイルス・デイビスさん(1926~91年)のバンドに60年代の終わりに参加したことが頭角を現す大きなきっかけとなった。

 「チックは、マイルスから託されたバトンを多くの若い演奏家に渡し続けました。だから、世界中に彼を敬愛してやまない音楽家が世代を超えて大勢いるのです。僕もチックから受け取ったバトンを次の世代に渡さなくてはならない」

 内藤さんも「ヤマハの楽器をPRするため大勢の演奏家と知り合ったが、いつの時代も若い世代がチックさんを敬愛していた」と振り返る。

 チックさんは亡くなったが、チックさんから世界中の若い演奏家に渡されたバトンは、いつまでもリレーされるのだ。

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