国土開発の先駆者 水害から大阪を救った豪商、河村瑞賢  - 産経ニュース

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国土開発の先駆者 水害から大阪を救った豪商、河村瑞賢 

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 大阪平野は大小の河川が流れ込み、古来、水害に悩まされてきた。そこで江戸時代前期、治水事業を展開し、大坂の水害防止に貢献したことで知られるのが江戸の豪商で土木家の河村瑞賢(ずいけん、1618~99年)だ。治水工事で生まれた新たな水路は、船運に貢献し、商都・大坂の発展を支えた。瑞賢は本州の大半をカバーする航路を初めて開発し、物流を飛躍的に拡大することにも貢献しており、多彩な活動は国土開発の先駆者だったといえそうだ。  

(上坂徹)

度重なる水害に治水を

 江戸時代の延宝年間、畿内はたびたび、激しい水害に襲われた。特に2(1674)年の水害は激しかった。大阪平野の北側を流れる淀川が増水し、下流にかかる橋が次々と流されて、左岸の堤防は決壊、現在の枚方市から大阪市までがすべて水没した。被害は甚大だった。

 度重なる水害に対し、新たな治水方針を決めるため、幕府(将軍・徳川綱吉)は天和3(1683)年、若年寄の稲葉正休(まさやす)らを畿内に派遣し、淀川や大和川、その流域河川の調査を行わせている。これに同行したのが、幕府や各大名からの注文を受けて、多くの土木建築事業を手掛けていた瑞賢だった。

 瑞賢と親交が深かった儒学者で政治家の新井白石(1657~1725年)はそうした経緯や治水事業を「畿内治河(ちか)記」で詳細につづっている。それによると、実際の調査は瑞賢が中心で、範囲は今の大阪、京都、兵庫、奈良、滋賀の各府県に及び、主要河川を舟で調べている。

 「琵琶湖に端を発する淀川は上流から流出する土砂が滞留して、川底が高くなって氾濫する。淀川が海に注ぐところに、九条島があり、河水が島に当たって水勢を弱めることが、上流の土砂堆積の原因になっている」

 淀川の河口に蓋をするようにあった三角州の九条島に目をつけた瑞賢は「九条島に水路を開いて、強いままの水勢で淀川が海に流れ込むようにしなければならない」と考えて、治水構想を示した。そして、幕府からの正式な依頼を受け、工事に着手した。

わずか20日間の工事

 貞享元(1684)年に始まった工事については、「畿内治河記」に詳しい。

 九条島では、島の中ほどを両端まで開削し、幅約90メートル、長さ約3キロに及ぶ人工河川(新川、のちに安治川)を造った。

 現場は三角州の湿地のため、少し掘ると水が湧き出すような悪条件だった。このため、瑞賢は木の板数万枚を用意して現場通路として敷き詰め、足踏み式の揚水機(踏車)を数百基投入し、湧き出す水をかき出しながら、工事を進めた。作業員も万単位で集まり、能力・経験をもとにした組織編成を行って、効率的な作業を展開し、わずか20日間で完成させたという。

 4年間にわたる治水工事ではこのほか、淀川筋、大和川筋、宇治川で、流出土砂が作り出した外島の除去など流れを円滑にする事業や、淀川下流や大和川の川幅の拡幅、堂島川の整備、大阪にめぐらされた堀約45キロ余りの拡幅・整備などが行われた。

現代にも評価される開削

 この当時、治水対策として大坂城近くで淀川と合流していた大和川を付け替え、独立した流路を造って海に流れだすようにするほうが効果がある、という有力な意見があった。が、瑞賢は「意味がない」と退け、この治水工事のメインを安治川の開削、としている。

 博物館「大阪城天守閣」の北川央(ひろし)館長は「大和川を付け替える要望に対して、瑞賢は治水の効果はないと判断した。実際、その20年後に大和川の付け替えが行われて、淀川と合流せず、大阪湾に流れ込むようにしていますが、かえって、上流の水害が増える結果になった。瑞賢の判断はすばらしかったというのが今の位置付けです」と説明する。

 当時の人々にも瑞賢の判断は支持されたようだ。

 「水害で荒らされてきた田は、今では肥えて作物がよくできる地となった。…。人々は声をそろえて喜び、工事をほめる声は野に満ちている。昔からこれまで、こんな大きな功績をたてた人はいないだろう」

 白石も「畿内治河記」のなかで、瑞賢、その治水事業をこう評価している。