世はコロナ禍恐怖である。それはコロナが恐ろしいのではなくて、コロナによって死に至ることが恐ろしいのである。
生か死か-古来、これは人間にとって大問題。というとき、たまたま映画「鬼滅(きめつ)の刃(やいば)」を観(み)にいった。その感想を言えば、生者と死者(鬼)との東北アジアにおける伝統的関係とは違う、と言わざるを得ない。
中国における大前提はこうである。人は明るい<顯明(けんめい)>の世界において、法や道徳などいろいろな約束の下で生きている。
しかし、必ず死ぬ。死者はすべて鬼(き)となる、暗い<幽間(ゆうかん)>の世界に入り、その世界における約束に従って生活する。この幽間は、日本では黄泉(よみ)の国。
すなわち、本来、鬼は死者のことであって、悪者ではないのである。しかし、悲しいかな、死後において悪事を働く者が出てくる。
どうするか。生のときは、属している一族の族譜(ぞくふ)(系図)からその悪者の名を削り、抹消する。となると、いざ就職しようと思っても、一族の誰一人として保証人となってくれない。となると、裏社会に落ちるか物乞い生活かということになる。
さらに恐ろしいことが待っている。死を迎えても一族の墓地に入(はい)れない。やむをえず、墓のない幽鬼となってしまう。それが幽霊・亡霊である。彼らは幽間においても居場所がなく、悪鬼となる。また、生の世界においてまともであっても、死の世界に入った後、もし悪業をなせば悪鬼となり、罰せられる。
『荘子(そうじ)』庚桑楚(こうそうそ)(人名)篇(へん)はこう述べている。「顯明の中に〔おいて〕不善を為(な)す者は、〔その悪〕人〔を〕得て之(これ)を誅(ちゅう)す。幽間の中に〔おいて〕不善を為す者は、〔その悪〕鬼〔を〕得て之を誅す」と。「誅」とはその罪により死刑にすること。
ここから「鬼誅(きちゅう)」ということばが生まれた。「鬼滅」ではない。すなわち鬼の世界の人々が、悪鬼を誅するのである。
生の世界(人)でも死の世界(鬼)でも、悪者(わるもの)は必ずいるのでそれぞれ死罰を与えねばならないということなのである。
それが東北アジア(日本を含む)の死生観の根底にある。
しかし、「鬼滅の刃」の原作者は「鬼」を始めから「悪鬼」と見なしているようであり、それには老生、違和感を覚えた。「鬼誅」は「鬼(死)の世界において、鬼が悪鬼を誅する」ということなのであるから。
死は人間にとって最大の恐怖である。現世においてすでに悪人であった者は、死後、入る墓がなく、幽鬼として永遠に彷徨(さまよ)うほかない。まして、正常な人が死後、処罰を受けて幽鬼となるなどうんざりである。
この理論は、まず、生きている人に対して、その行動への強力な抑止力となっており、一族への忠誠が揺るがない在り方であることを示している。
だが日本では、今やその一族自体が個人主義化(実は利己主義化)の中で解体しつつある。
『国語』周語下に曰(いわ)く、善に従えば登るがごとく、悪に従えば崩るるがごとし、と。(かじ のぶゆき)