《江戸歌舞伎と上方歌舞伎。同じ歌舞伎でも、東京と関西の歴史や土壌、町の気風の違いの上に、それぞれ特徴のある芸がはぐくまれた》
たとえば、二枚目の色男でも、江戸歌舞伎と上方歌舞伎で随分描かれ方が違います。
単純にいうと、江戸の二枚目は誰が見てもかっこいい。「助六(すけろく)」の主人公の助六なんて女性にもてまくって、花道を出てきたときからかっこいいんです。ヒーロー然としている。
ところが、上方の二枚目は、色男であっても、どこか三枚目の要素があって人間くさいんですね。「封印切(ふういんきり)」の忠兵衛は、悪友の八右衛門(はちえもん)にあおられるまま、ついカーッとなって、切れば死罪になるという公金の封印を切ってしまう。
また、「河庄(かわしょう)」の治兵衛(じへえ)は、妻子があるのに、遊女の小春(こはる)と恋仲になって心中の約束をする。ところが、小春が自分を裏切ったと思い込んで、ののしったり足蹴にしたりする。男の弱さを少し滑稽に見せるのです。決して男らしい完全無欠のヒーローではない。人間の弱さや欠点も持ち合わせている。でも、愛嬌(あいきょう)があって憎めない。女性が放っておけない男なんですね。
しかも上方のお芝居自体、リアルで写実的でありながら、歌舞伎独特の様式的な美や迫力もある。「封印切」で忠兵衛が封印を切る場面の切羽詰まった姿の美しさなどそうでしょう。型があるようでない。気持ちで作っていくお芝居なんです。演じれば演じるほど、そういう上方のお芝居に引かれていきました。
《とはいうものの、気持ちで役を作っていくのは容易なことではない。それは歌舞伎の演技の土台をしっかり身につけた上でのことだからだ》
そもそも私自身、10代の頃はほとんど舞台に立っていなかったため、大学生になって、いざ、古典の演目に出演するようになったとき、本当に何もできなかった。歌舞伎には、武士なら武士、奴(やっこ)なら奴の歩き方がある。お姫さまの座り方というのがあるんです。私の場合、まずはそこからでした。
《昭和56年、鴈治郎さんが22歳のとき、父、坂田藤十郎さんが自主公演の場として「近松座」を旗揚げする。近松門左衛門の作品を研究上演しようという画期的な演劇運動。翌57年、第1回公演「心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)」を上演した》
まだ歌舞伎の右も左もわからないときです。近松座は、古典をそのまま上演するのではなく、いま上演されていない近松作品を復活上演したり、近松の原作にのっとって上演するという活動でした。資料などをもとに、一から芝居を作り上げていくわけで、私も自分に与えられたお役を自分で考えて作っていかないといけなかったんです。古典もわかっていない時期に歌舞伎のお役を作っていく作業はあまりにも大変でした。
当時、近松座に出てくださっていた(澤村)田之助のおにいさん、(六代目尾上)松助(まつすけ)のおにいさんから「こんなことも知らんのか」と言われながら指導していただきました。ある意味、近松座があったからこそ歌舞伎のさまざまな約束事を教わることができたのだと思います。(聞き手 亀岡典子)