【勇気の系譜】黒柳徹子さん テレビ草創期から第一線「子供のため、平和のため」紛争地へも(1/2ページ) - 産経ニュース

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勇気の系譜

黒柳徹子さん テレビ草創期から第一線「子供のため、平和のため」紛争地へも

【勇気の系譜】黒柳徹子さん テレビ草創期から第一線「子供のため、平和のため」紛争地へも
【勇気の系譜】黒柳徹子さん テレビ草創期から第一線「子供のため、平和のため」紛争地へも
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 この人にはどれだけの顔があるのか。テレビ草創期から第一線を走り続け、お茶の間の顔になった。もう一つは国連児童基金(ユニセフ)親善大使。危険を顧みず、世界各地の子供たちを光で照らし、その実態をテレビで届けてきた。黒柳徹子の原動力は自らの戦争体験と人を思う、豊かな想像力にある。

NHK専属のテレビ女優第1号

 自分の子供に絵本を上手に読んであげるお母さんになろうと思って、テレビの道に入ったの

 昭和28年、日本でテレビ放送が始まる直前、偶然目にした新聞の募集を見てNHK専属の「テレビ女優第1号」になった。一般家庭にテレビが普及していない時代。どんな仕事か見当もつかなかった。

 新人女優の価値観を変えたのは、放送技術指導でNHKに来ていた米NBCのディレクターの話だ。「テレビは今世紀最大のメディアになる」。彼はこうも続けた。「世界中のあらゆる出来事を見ることができる。もしかすると戦争までも。うまく使えば永久の平和をもたらすかもしれない」

 その言葉は今も黒柳の希望だ。1日の食事だった大豆15粒を、防空壕(ごう)の中で「死んじゃうなら全部食べようか」と迷ったこと。青森へ疎開した後の昭和20年3月、東京大空襲で大好きだった学校も自宅も焼けてしまったこと。戦争は幼少期の思い出に暗い影を落としていた。

 平和のために協力できるかもしれないのなら、テレビの仕事を続けよう

 タマネギ頭と軽快な語り口で、黒柳は常にテレビの中心にいた。数々の人気番組の顔を務め、51年開始の「徹子の部屋」は放送1万1千回を超える国民的番組だ。

 日本で累計800万部を数える自伝的著作「窓ぎわのトットちゃん」(56年)も運命を切り開いた。知人だった元国連難民高等弁務官の緒方貞子(1927~2019年)を通じて当時のユニセフ事務局長の手に渡り、親善大使就任の要請を受けた。そして1984(昭和59)年、アジア初の親善大使になった。

運命的な「トットちゃん」