《平成7年1月、鴈治郎さんは、それまで名乗っていた中村智太郎(ともたろう)から五代目中村翫雀(かんじゃく)を襲名した。弟の三代目扇雀(せんじゃく)さんと同時襲名で、襲名披露公演は大阪・道頓堀にあった中座で行われた。翫雀の名跡は、祖父の二代目鴈治郎の前名であり、初代は江戸時代後期にまでさかのぼる》
「かんじゃく」と読むんですけど、最初は誰もすぐ読んでくださらなかったですね。「がんじゃくさん」なんて、よく間違われました。
私にとって、襲名自体が初めての経験。「智太郎」は本名ですから、芸名でやるのも初めてですし、襲名披露興行を関西からスタートさせるということも当時、ほとんどなかったですね。
《襲名披露の演目は、「封印切(ふういんきり)」の忠兵衛(ちゅうべえ)と舞踊の大曲「春興鏡獅子(しゅんきょうかがみじし)」。特に忠兵衛は、はんなりとやわらかな上方和事(わごと)芸を代表する役どころで、相手役の梅川に父、坂田藤十郎さん(当時、三代目中村鴈治郎)、忠兵衛の恋のライバル、八右衛門(はちえもん)に片岡仁左衛門(にざえもん)さん(当時、片岡孝夫)。上方を代表する二家が共演する豪華な舞台であった》
ところが、この公演中、あの阪神大震災が起こったんです。1月17日早朝でした。実はその前日の公演で、父が「曽根崎心中」のお初を演じて通算千回という記録を達成していましたので、親戚が泊まりがけでお祝いに来てくれていました。私たち家族はホテル日航大阪で泊まっていて、いきなり大きな揺れで飛び起きました。
火が上がっていたら逃げようと思って廊下に出ましたが、シーンとしていた。地震発生直後はどこが震源地か、情報が入っていなかったんです。でも、お芝居はでけへんやろなあと思っていましたら、劇場からだったか松竹からだったか忘れましたが、電話がかかってきて「舞台を開けます」と。「ええっ、開けるんだ」とびっくりしました。というのは、泊まりがけのお客さまが劇場に来てくださっていたんですね。