千田嘉博のお城探偵

「土」に守られる佐倉城の魅力 

【千田嘉博のお城探偵】「土」に守られる佐倉城の魅力 
【千田嘉博のお城探偵】「土」に守られる佐倉城の魅力 
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 私が現在勤めている奈良大学は、奈良時代に首都・平城京の北の城壁に見立てた平城山(ならやま)丘陵の一角にある。キャンパスからは東大寺、春日大社、興福寺、薬師寺、秋篠寺を一望し、若草山、春日奥山、二上山(にじょうさん)、生駒山を眺められる。冬晴れの日には吉野の山々まで見渡せる。そして、コンビニエンスストアよりも古墳が近いという立地である。

 この奈良大学は、キャンパスのまわりに堀も土塁も石垣もめぐらさない。完全に非武装である。もちろん21世紀に、おうちや勤め先が武装している方はまれだろう。しかし私にとって非武装の勤め先は、奈良大学がはじめてだった。

 最初に勤めた名古屋市見晴台(みはらしだい)考古資料館は、弥生時代の環壕集落のなかにあって、立派なV形の堀で守った。そしてつぎに勤めた千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館は、江戸時代の佐倉城内にあって、大規模な堀や土塁で厳重に守った。城好きが毎日城に通うのだから、それだけで楽しい。

 佐倉城の位置には、戦国時代に千葉氏と北条氏の城のひとつだった鹿島城があった。その後、1610(慶長15)年に江戸幕府の2代将軍・徳川秀忠の側近、土井利勝がこの地に入り、翌年から佐倉城の建設を進めた。

 今見る佐倉城は、利勝が1616(元和2)年頃までに築いたもので、近世城郭としては少し遅い成立だった。そして佐倉は石材を入手しにくい土地だったので、土づくりの城として完成した。一般に土の城より石垣の城の方が優れたイメージがあるが、佐倉城は石垣よりも自在に加工できる土の特性を生かし、当時最先端の守りのくふうを凝らした。

 現地を訪ねて、佐倉城址公園として整備した城をお城探偵すると、巨大な空堀をいくつも発見できる。これらの堀は複雑に屈曲して、城に迫る敵に対して多方向から防射できるようになっていた。ひとつひとつの堀の屈曲には大きな意味があった。江戸時代の絵図を見ると、堀の内側には防御の拠点になった塀や櫓(やぐら)を建てただけでなく、敵が空堀の底へ入るのを防いだ柵も要所に用いていた。

 そして、公園東側の自由広場に接する三の丸門跡に注目すると、園路が直角に曲がっているのを体感できる。出入り口を守りつつ反撃した馬出しの痕跡である。この脇には台地を切った空堀が残るが、実は城内側の地形がもともと低かったので、堀に沿って高い土塁を積み上げて地形の不利を克服していた。

 博物館の横には、復元したもうひとつの馬出しがある。ただし、関連した堀を完全に整備していないので、現地で見ても馬出しの役割がわからない。将来の整備を期待したい。

 国立歴史民俗博物館の後に私は奈良大学に勤めたが、着任して堀や土塁や石垣が勤め先を守っていないので、あるべきものがないような気がしていた。

 しかし、この場所はもともと城壁に見立てられていたのだから、私の勤め先は、ついに城壁そのものになったと考えてよいのではないか。城好きにとって、そう思えるのは幸せである。(城郭考古学者)

 佐倉城 江戸の東方を守る拠点となった城。完成時には天守のほか、城内の要所に堅固な櫓門5棟を兼ね備えた。歴代城主には幕末の老中首座で開国を先導した堀田正睦(まさよし)ら、有力な譜代大名が名を連ねる。明治以降、軍隊の駐屯に伴って残っていた櫓門などは撤去された。