一聞百見

伝説のパティシエ、西原金蔵さん 京で再起動

ところが、そんな日々にちょっとした異変が起きる。「会社の同僚の知り合いが喫茶店を経営していて、そこに遊びに行くようになり、飲食業や接客業に興味を持つようになったんです」。その同僚の母親の職場である湯郷(ゆのごう)温泉(岡山県美作市)の旅館のロビーにも喫茶店を出すことになり、手伝いをすることに。もともと人付き合いもうまく、料理もうまい方だったので「そうこうするうちに、旅館のフロントの手伝いも任されるようになると『接客がうまい』とほめられまして。向いてるのかなと…」。

同じ頃、勤めていた会社の経営が悪化。西原さんは希望退職に応じ、約2年勤めたその会社を辞めた。20歳の時だった。敷かれたレールから外れ、新たな人生が動き出した…。

「料理界のダビンチ」に認められ

勤めていた会社を20歳で早期退職し、飲食業や接客業の道に進むことを決意した西原さん。「当時、テレビで見た東京の高輪プリンスホテルの華やかな都会の世界に憧れたんです」

「反対されるに決まっていると思いながら、父にホテルマンになりたいと頼むと快諾してくれました。これからは自分の道を歩みなさいと。感謝しかなかったです」

ところが、ホテルで働くにはその専門学校に行かねばならないが、そうした学校は当時、東京にしかなかった。しかし「父は、岡山から東京は遠過ぎる。もってのほか。大阪でも遠いからダメだと」。結局、親戚が住む京都ならOK、というわけで昭和49年、京都グランドホテル(現・リーガロイヤルホテル京都)に。

ここで接客の基礎を学ぶが「調理の世界に入りたい」と53年、大阪市の辻調理師専門学校へ。「当時の校長のフランス料理への熱い思いに感銘を受けた」ことから翌年、フランス料理を本格的に学ぼうと渡仏する。ミシュラン一つ星レストランで勤務するなど、約3年にわたりフランス料理の基礎をみっちり学んだ。「作り方はもちろん、使用する食材などのグラム数に至るまで、基本のノウハウを完全に丸暗記し、それを再現するというやり方に、感心した記憶があります」

その腕を買われ、帰国後の58年、神戸ポートピアホテル内のフランス料理店「アラン・シャペル」(平成24年閉店)で専属パティシエを務めた。アラン・シャペルといえば「料理界のダビンチ」と呼ばれたフランス料理界の伝説的なシェフ(平成2年に52歳で死去)。その味が彼の故郷、仏リヨンにある本店(現在、閉店)以外で唯一楽しめるのが、自身の名を冠したこの店だった。

ここで西原さんはシャペルさんに認められ、昭和62年、仏リヨンの本店で約2年間、シェフパティシェ(製菓長)として大活躍。仏の三つ星レストランで製菓長を務めた初の日本人として「世界中の食通や有名人を相手に研鑽(けんさん)と勉強の日々」を過ごし、既成概念にとらわれないメニューで成果を上げた。

帰国後、西原さんの名前は業界に轟(とどろ)いていた。平成元年には仏の名シェフ、ジャック・ボリーさんの勧めで、資生堂パーラー(東京・銀座)と、当時、同パーラーのビル内にあり、現在、ミシュラン三つ星の名フランス料理店「ロオジエ」の総製菓長に。周囲の期待通り、フランスの「ルーブル美術館」のエントランスホールにあるガラスのピラミッドをモチーフにしたチョコレートケーキ「ピラミッド」といった人気商品を生み出した。