昭和52年シーズン、パ・リーグの後半戦(後期)はロッテが逃げ、阪急が追いかける展開となった。だが、世間の注目はペナントレースではなく、ストーブリーグに注がれた。
9月25日、スポーツ各紙が一斉に『南海、野村監督を電撃解任』-と報じた。〝野村騒動〟が勃発したのである。この事件は一昨年(令和元年)9月に連載『虎番疾風録 其の参』の第58話で紹介した。もう一度おさらいしてみよう。
52年8月下旬に「来季も野村体制で行く」と公言していた南海の川勝伝オーナーが9月24日、一転して「解任」を示唆した。
「野村君については私なりに期待して見守ってきたつもりだ。来季も頼む腹づもりだったが、ちょっと事情が変わってきた。チーム内での公私が混同されている面もあり、各方面からそうした点で非難の声があがってきたからだ」
オーナーが言う「公私混同」とは野村克也監督の〝女性問題〟。当時、野村は前夫人との間で離婚訴訟中。ある女性と愛人関係にあった。その女性とは、後に野村の後妻に入った沙知代夫人(サッチー)。当時は「伊東夫人」と呼ばれていた。これだけなら、解任の理由にはならない。ところが…。
「選手やコーチを呼び捨てにし、自分の小間使いのように用事をさせる」「選手の起用に口を出す」「勝手に選手バスに乗ってきた」と選手やコーチの苦情があちこちから噴き出したのである。
「そんなことは全部デマ。彼女はそこまで非常識な女性ではない」と野村は伊東夫人をかばった。
ある日、野村の後援者の一人である比叡山延暦寺の葉上照澄大阿闍梨が「このままでは野球ができんようになるぞ。野球を取るか、女を取るか」と迫った。野村は「女を取ります」と答えた。
後年、サンケイスポーツの評論家となった野村は当時の心境をこう語った。
「野球はどこででもやれる。けれど、沙知代という女性は世界に一人しかいないだろう」
野村監督の「解任」が決まった。だが、騒動はここから。野村を慕う江夏豊やブレイザー・コーチ、柏原純一たち〝野村一家〟が球団へ反旗をひるがえしたのである。(敬称略)