復興日本

東日本大震災10年 第1部 再生(1)海消えた町 住民帰らず

宮城県石巻市の雄勝地区では山を切り開いた高台に住宅が建っていた。旧市街地の建物は防潮堤に隠れて一部が見えない=昨年12月、宮城県石巻市(荒船清太撮影)
宮城県石巻市の雄勝地区では山を切り開いた高台に住宅が建っていた。旧市街地の建物は防潮堤に隠れて一部が見えない=昨年12月、宮城県石巻市(荒船清太撮影)

峠道を抜ける。視線の先に現れたのは、かつての青く広い海ではなく、10メートル近くそびえる防潮堤だった。入り江や湾が複雑に入り組んだリアス式海岸。なかでも、とりわけ美しいと評される宮城県石巻市半島部の雄勝(おがつ)地区。住民の大半が市街地に移ったいま、スポーツ施設などの建設が進んでいる。

「誰もスポーツする人間いねえのに?」

小さな入り江を上った高台に整備された宅地に唯一、居を構えた木村玲子さん(59)はこぼす。「牢屋(ろうや)のよう」と口にする地元の人もいる。

「雄勝」にちなんで名付けられたという夫の勝雄さん(59)は、平成23年3月11日に起きた震災の1年前、養殖業者として独立した。最初の水揚げ直前、津波がカキやホタテをさらっていった。自宅ものまれ、自己破産した。

「生きてるからいいけどな。うちは誰も流されてないから」と玲子さん。雄勝地区では243人が死亡・行方不明となった。

政府は震災後、津波被害を防ぐために被災地をかさ上げするか、高台に移転するかで再建する方針を示した。だが、雄勝地区では住民の希望が割れ、復興計画の策定が紛糾した。震災前に4366人いた住民は1153人に減少。希望を受けて石巻市の半島部に整備された高台などの宅地612区画のうち、81区画は途中で希望が取り下げられ、空き地のままだ。

住民の多くは十数キロ離れた同市の河北地区に移った。震災後、避難所や仮設住宅があった場所だ。雄勝地区と違い、スーパーマーケットや病院が整う。

「浜に住んだって何もないもの」

こう話すのは雄勝地区からここに移り住んだ伊藤美光さん(89)。半世紀近く前に同地区の水浜で養殖業を始めた先駆けだ。

遠洋漁業中心だった水浜では伊藤さんに続くように一人、また一人と養殖業に身を転じた。そんな仲間もほとんどが浜を離れた。

雄勝地区はこの100年で3度、大きな津波に襲われた。そのたび、人は地元に戻ったが、「3度目ばかりはしようがない」。伊藤さんは海の見えないこの地で最期を迎えるつもりだ。

被災後の「創造」 阪神の教訓

「創造的復興」。被災した街を以前の姿に戻す「復旧」だけではなく、将来の発展を見据えた「復興」が必要との考え方だ。平成7年1月の阪神大震災で、当時の兵庫県知事、貝原俊民氏が掲げた。23年の東日本大震災の被災地でも取り入れられ、今では災害大国・日本の未来を考える上で重要なキーワードとなっている。

高層マンションや店舗が並ぶ神戸市灘区のJR六甲道(ろっこうみち)駅南地区。大きな揺れで住宅ががれきの山と化した26年前。再開発を経て、今では嘘のように活気づく。

「26年前には想像もできんかったね」

今ではすっかり地区の顔となった六甲道南公園に、明るい声が響く。震災後の市再開発事務所長、倉橋正己さん(71)と、被災前から住み続ける斉木久美子さん(91)だ。

震災後、市職員と住民という異なる立場から、街の復興に向けた議論を戦わせた2人。今では笑って話せる仲だが、当初は再開発の内容をめぐって対立した。

市側は震災2カ月後の7年3月17日に突然、JR六甲道駅南地区の再開発の都市計画を決定したと発表した。地元に相談もなく、住民は新聞や市の広報で知った。防災拠点の大きな公園を新設し、複数の高層マンションが取り囲む-。そんな市側の計画を斉木さんらは受け入れなかった。

震災前、この付近は住宅が密集し、地域のつながりは強かった。高層マンションに代わると、そんな絆が消えてしまうという心配からだった。だが、倉橋さんら市側も「住民に一刻も早く希望を持ってほしい」と、引かなかった。

歩み寄りのきっかけは、駅南地区を4つに分けてつくられた「まちづくり協議会」だった。

約2年かけて住民と市が意見をすり合わせた。最終的に斉木さんらは公園新設を受け入れ、9年2月に都市計画は変更。市の当初案よりも公園や建物は小さくなり、防災力と地域のつながりを両立した六甲道南公園は、新たな街の象徴となった。倉橋さんは「ハード面の創造的復興はできた」と評価する。

一方、阪神大震災では創造的復興がまだかなっていない被災地もある。

神戸市長田区のJR新長田駅南地区。震災で大規模な火災が発生した。市は、総額2200億円を超える全国最大規模の再開発として、巨大な再開発ビルを建設。しかし、ビルの入居は約半数にとどまり、集客は低迷する。

「計画段階と乖離(かいり)が生じるのは、大規模な震災復興事業では避けられない」

久元喜造市長は昨年12月の記者会見で、事業をこう評した。市のトップが「事業は肥大だった」と言外に認めたともとれる。

長い時間をかけて地元と合意形成を図った六甲道とは対照的に、新長田は計画の着手を急いだ。市の有識者会議は「内部に計画のブレーキ役がいなかった」と背景に言及する。

明暗が分かれたとも言える阪神大震災での創造的復興。東日本大震災の被災地は、同じ轍(てつ)を踏んでいないのか。

637人が犠牲になった宮城県南部の山元町。住居や病院、商業施設といったまちの機能を3カ所に集める「コンパクトシティー」を掲げ、防災力と街の魅力の向上を目指した。

被災直後は人口が急減したが、天然芝の生産など新産業も生まれた。まちづくり協議会も立ち上がり、住民の声から計画が変わったものも少なくない。町職員は「阪神大震災の教訓を生かせた」と話す。「子育てするなら山元町」をスローガンに、町は新たに転入する子育て世代への補助を拡充、定住を促進する。

被災から10年。被災地では復興が進むが、政府の復興構想会議の議長を務めた五百旗頭(いおきべ)真氏(ひょうご震災記念21世紀研究機構理事長)は「津波から安全な街ができたが、まだ完璧ではない」と指摘する。

五百旗頭氏は昨夏、同県気仙沼市の菅原茂市長から、こんな嘆きを聞いた。

「産業は復活したが売り上げは増えない。新産業も創出できていない」

岩手県陸前高田市でも大規模にかさ上げした土地に空き地が目立つ。土地利用率は5割を切っている。五百旗頭氏は「人口減少の時代に空き地だらけ。どこか挫折感がある」と憂える。

災害に強いまちと同時に、復興の「創造性」を追い求めてきた被災地。今年3月で国の「復興・創生期間」も終わり、第2期に突入する。少子高齢化という「縮む社会」に適した復興の形とは何か。被災地では今後も模索が続く。

3月11日で東日本大震災から10年。「復興日本」第1部では、被災地の現状と、そこからみえてきた課題を探る。