勇者の物語

西本の恩情 「近鉄優勝させる」おやじに誓い 虎番疾風録番外編143

近鉄に移籍した米田(右)と西本監督=昭和51年12月17日
近鉄に移籍した米田(右)と西本監督=昭和51年12月17日

■勇者の物語(142)

巨人を破り2年連続日本一となった勇者たちはみな、恩師・西本幸雄(近鉄監督)に報告の電話を入れた。彼らは巨人に勝てずにチームを去った西本の〝無念〟を分かっていた。

その年のオフのことである。昭和51年11月19日、スポーツ新聞が一斉に『阪神の米田退団決定的』と報じた。一部スポーツ紙に「吉田監督の投手起用にはもうついていけない」という米田の首脳陣批判発言が載り、これに球団が態度を硬化。18日、長田球団社長が「米田との来季の契約を見合わせる」と発表した。

「あれだけのことを公言した以上は球団としても考えねばならない。350勝へあと2勝。もう1年、頑張ってもらうつもりでいたが…。阪急さんには申し訳ないが放ってはおけない」

移籍した昭和50年こそ8勝(3敗1S)したものの、今季は6月に右ひざ関節炎で戦列を離脱。2勝2敗の不本意な成績に終わった。成績に釣り合わない年俸(推定1200万円)。年齢(38歳)からくる力の衰え。そして「首脳陣批判」。道は「任意引退」しかなかった。

11月30日、吉田義男監督は自ら米田に球団の方針を伝えた。「もう1年プレーしたい」という米田。吉田はその気持ちに応えるべく、球団に「自由契約にしてやってほしい」と申し入れた。そんな阪神の動きに近鉄・西本監督が立ち上がった。

「自由契約になるのならウチで引き取る。まだまだ投げられるはずや。ヨネは投手として経験できるすべてのものを体験してきた男。ワシはそこを買う。ウチの若い選手たちには、ヨネの生活そのものが指導になる」

西本は必死に球団を説得した。そして12月17日、米田の近鉄入団が発表された。コーチ兼任、年俸1000万円。背番号「11」。米田は「阪急に勝って、近鉄を優勝させてみせる」と誓った。

阪急の監督時代、41年10月に起こった「信任投票事件」で米田は「×」と書いて投票した。それでも、米田はかわいい教え子。誰からも「おやじ」と呼ばれ慕われる西本幸雄の懐の大きさである。(敬称略)

■勇者の物語(144)

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