いつだったか、そのあまりに露骨な題名につられて「帝国金満家一覧鑑」なるパンフレットを買ったことがある。書庫から出して見てみると、昭和五年五月五日発行、版元は東京市神田区栄町・松本幸盛堂。
「定価十銭」とあるのは、本屋などで市販されていたのだろうか。パンフレットといっても私の肩幅より大きな一枚紙(がみ)で、四角い表のなかに、当時の金持ちの資産額、肩書、姓名がずらずら相撲の番付ふうにならべられている。東の横綱は「五億 三菱銀行役員男爵 岩崎久弥」である。
対して西の横綱は「三億 住友合資代表男爵 住友吉左衛門」だ。どちらもそれから大関、関脇、小結、前頭とつづく。その東方(ひがしかた)、前頭の力士のなかに、
「一千万 木曽川電力社長 福沢桃介(ももすけ)」
の名のあるのが私にはうれしかった。横綱から数えると六十番目。なかなかいいところではないか。
何しろ財閥とは縁もゆかりもない、埼玉の貧しい農家の生まれなのだ。その貧しさときたら長男の兄でさえ丁稚(でっち)奉公に出されたほどで、しかし桃介自身は「神童」と呼ばれるくらい成績がよかった。
十五歳で家を出て、慶応義塾の寄宿舎へ入ったのは、おそらく誰かが学費を出してくれたのだろう。もっとも、慶応に入れば神童などいくらでもいるわけで、そのなかで創立者・福沢諭吉がどうして、
--娘の、婿(むこ)に。
と白羽の矢を立てたのかはわからない。一説には顔のせいという。つまり桃介はイケメンだったから、むしろ娘と妻のほうが「あの人なら」と諭吉を説得したのだとか。
結局、女ふたりの思いどおりに事ははこび、桃介は姓が福沢になった。埼玉の実家からすれば期待の息子を「取られた」かたちになる。慶応卒業後、桃介は、いろいろ首をつっこんだ。外遊したり、北海道炭砿鉄道という当時の花形会社に就職したり、株の売り買いをやったり、貿易会社をつくったり。
ひとりのお坊ちゃんが出来あがるのに育ちの貧富は関係ないという好例であるが、桃介はどこか飽き足りないものがあったのだろう。四十代でとうとう人生の主題と出会った。
あるいは、人生の主題をみずから決めた。木曽川である。きっかけは名古屋電灯という電力会社の株を手に入れたことだった。経営者として乗りこんで、経営そのものは苦労したらしいが、あるいはその将来の事業計画のなかにこの川を「発見」したものか。
何しろ水量が多い。落差が大きい。発電事業にはぴったりである。もちろん水力発電所自体はそれまでも日本に存在したけれど、それは自家用か、そうでなければ京都の蹴上(けあげ)発電所のような都市近郊の小規模なものでしかなかった。もしも木曽川の内蔵する厖大なエネルギーをそっくり電力に変えられたなら、その電力は名古屋どころか大阪までも行き着いて工場を稼働させるだろう、夜の道を照らすだろう。
市民たちは当時最先端の空調設備だった扇風機をも思うぞんぶん回すことができるだろう。つまりは日本そのものが文明国になるのだ。ちなみに言う、当時はもちろん原子力発電所などはなかったし、火力のそれは小さかった。未来は水力にあったのである。
桃介は、夢中になった。もともと身体頑健ではないのに草鞋(わらじ)ばきで中央アルプスにふみこんだ、御嶽山へ分け入った。もしかしたら木曽川水系に属するすべての川をその目で見る気だったのではないか。
そうして発心から約十年、桃介が最初に設立したのがこの賤母発電所にほかならなかった。いまも現役である。私はその建物をまのあたりにしたとき、ごく自然に、
--風流。
その一語が思い浮かんだ。外観はいやみがなく、機能美にほどよく社交性が加味されて、ちょっとホテルに近いものがある。それが川のほとりに立っているのも(当たり前だが)、とても清潔な印象だった。
設立したとき、桃介は、五十二歳になっていた。妻を他人にあたえられ、外遊にも就職にも婚家の力を借りざるを得なかった「流される」人生のお坊ちゃんは、その流される水の力で自分を築き、真のジェントルマンになった。
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新型コロナウイルス感染予防のため、賤母発電所を所有する関西電力は現在、見学の受付を行っていません。