第4戦の朝、上田利治監督は夜明け前の午前4時に目が覚めた。シリーズ前の練習から起床時間は午前7時と決めていた。「いかんなぁ、緊張しとる」。いつもと違う空気は試合にも及んだ。
◇第4戦 10月29日 西宮球場
巨人 010 000 102=4
阪急 101 000 000=2
【勝】小林1勝1敗 【敗】山口1勝1敗1S
【本】福本①(堀内)王③(足立)柴田①(山口)
阪急は三回にリードを奪い、五回途中から山口を投入した。後年、上田はこの継投が「失敗だった」と反省した。
選手たちは監督の表情からいつもと違うムードを感じとっていた。そこへ切り札の山口投入。これで勝てる。いや、逃げ込まなくては…。1点を守ろうという消極的な気持ちが強くなった。当然、重苦しさは山口にも伝染する。
七回1死から矢沢、原田、淡口に連続四球を与え、柴田の右犠飛で同点。九回には2死から小林に中前安打され、続く柴田に初球を右翼へ決勝2ラン。
「〝打ってこない〟と思って投げたタマを小林に打たれた。それで何気なく柴田さんに…。何を考えていたのか」と山口はうなだれた。
小林は打席に入る前、長嶋監督から次の回の投球に影響が出ないよう「三振してこい」といわれていた。内野ゴロを打って一塁へ走れば、息が整わないうちにマウンドへ上がることになる。だが、小林は打った。「ボクの足なら長打が出れば一塁からホームインできる。わざと三振なんてイヤだ」。若さゆえの反抗だった。
小林繁、鳥取・由良育英高-神戸大丸から昭和46年のドラフト6位で巨人に入団。当時、4年目の23歳。前年(50年)の5勝6敗から一気に勝ち星を18勝(8敗2S)と伸ばし、若きエースに成長していた。それだけに負けん気も強い。
第3戦でマルカーノに3ランを浴びたあとも、ミーティングで「ウチはデータに頼り過ぎている。あの場面でボクはシュートを投げたかったのに、サインはスライダーだった」とコーチに噛みついた。
「阪急打線なんか、自分のピッチングさえできれば怖くない」
背番号「19」が燃えていた。(敬称略)