文芸時評

1月号 「速度革命」の果てに 早稲田大学教授・石原千秋

コロナウイルスはずいぶん速く拡散し、世界中を駆け巡っている。人々はその速さと広さに戸惑っている。しかし、まちがえてはいけない。ウイルスは自分では動けない。速いのは人間なのだ。人間はいま自らの速さに戸惑っているのだ。

近代は「できるだけ多くのモノを、できるだけ遠くに、できるだけ速く運ぶこと」を目標に定め、その成功によって作り上げられた。もちろん、人類はずっとそうして来た。それが蒸気機関によって、人間の感覚を超えて加速したのが近代だった。それはたとえば蒸気船であり、鉄道だった。歴史家のシヴェルブシュによる『鉄道旅行の歴史』(加藤二郎訳、法政大学出版局)は、人々が鉄道の速さに戸惑いながら、しだいにそれに魅了されていく過程を論じた。そこで、こうなる。「十八世紀の旅行小説は、十九世紀初頭には教養小説となる」と。初期の鉄道は単線だったから、どこかで上りと下りがすれ違わなければならない。そこで、時間厳守と遅刻という概念が庶民にも広がった。人々の間で速さによる感性の変革が起き、速さを人生に組み込むことに成功したのである。夏目漱石『三四郎』に代表される数多くの上京小説を思い浮かべるだけで、このことが理解できるだろう。

日本でこのような感性の変革に気づいた一人が横光利一だった。大正12年の関東大震災後の復興について書いた一節である。「目にする大都会が茫茫とした信ずべからざる焼野原となって周囲に拡(ひろ)がっている中を、自動車という速力の変化物が初めて世の中にうろうろとし始め、直ちにラジオという声音の奇形物があらわれ、飛行機という鳥類の模型が実用物として空中を飛び始めた。これらはすべて震災直後わが国に初めて生じた近代科学の具象物である。焼野原にかかる近代科学の先端が陸続と形となってあらわれた青年期の人間の感覚は、なんらかの意味で変らざるを得ない」(「解説」『三代名作全集』)と。大都市では大衆消費社会が急速に拡大していった。文壇が横光利一たちに与えた新感覚派は正しい呼称だった。それは教養小説の崩壊でもある。教養小説とはすでにある価値観に到達するまでの物語だからである。

こうして現代が始まった。現代は「できるだけ多くの情報を、できるだけ遠くに、できるだけ速く運ぶこと」を目標に定め、その成功によって作り上げられた。思想家のボードリヤールは、だから現代人はモノではなく情報やイメージを買うのだと喝破した(『消費社会の神話と構造』今村仁司・塚原史訳、紀伊國屋書店)。速度をもっとも必要としたのは戦争である。思想家のヴィリリオは戦争論の中でこう言っている。「西欧の人間が到底多いとは言えない人口にもかかわらず優越性をもち支配的であるように見えたのは、より速い者として現れた」からで、わけてもイギリスの優位性が確立したのは「『産業革命』ではなく『速度体制の革命』が、民主主義ではなく速度体制が、戦略ではなく速度術が存在した」からだと(『速度と政治』市田良彦訳、平凡社)。近代日本がイギリスから学んだのもこのことだった。

世界が事実の集成ではなくイメージだとするなら、自分の好きなように見ることができる。現代社会で速度を身につけたのは、事実ではなくフェイクニュースだった。そして、もう一つ。コロナウイルスである。しかし、考えてみよう。どちらも人間が乗り物なのだ。人間はいま自らの速さに戸惑っているとは、こういうことである。

多くの人が心身のバランスを崩すのは、閉塞(へいそく)した生活を強いられているからだけではなく、歪(ゆが)んだ自画像に怯(おび)えているからにちがいない。だとすれば、心身のバランスを崩す方が、人間としてむしろ健全ではないだろうか。いま心身のバランスを崩しているあなたは健全だと、僕は思う。

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