話の肖像画

東京五輪金メダル1号、重量挙げ・三宅義信(81)(8)松陰の格言とローマ五輪

初出場したローマ五輪で銀メダルを獲得した=1960(昭和35)年9月7日(共同)
初出場したローマ五輪で銀メダルを獲得した=1960(昭和35)年9月7日(共同)

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《重量挙げの記録の伸びはとどまるところを知らない。学費、生活費を稼ぎながらの大学生活だったが、法政大1年の10月には日本記録を樹立した》

生計を立てるために小学5年生のころから新聞配達をしていたので、アルバイトに追われる生活には慣れていました。大学生になっても朝は5時に起床し、始発の電車で仕事先へ。合間に授業を受けて再び仕事をし、練習場へ向かうのは夜の8時ごろになる。もちろん部員は誰もいない。隣の高校から漏れてくる明かりだけを頼りに、みっちりバーベルと向き合い、家に帰るのは深夜0時を過ぎていた。

体の成長に合わせて競技を究めていく過程が楽しかったんです。大学1年の国体で初めて樹立したフライ級(52キロ以下)の日本記録は、五輪で実施される1階級上のバンタム級(56キロ以下)への転向を決意するきっかけになりました。

《日本の重量挙げを背負う覚悟が芽生えた》

(日本記録の樹立で)夢にみていた五輪が現実味を帯びてきました。五輪のバンタム級で戦うためにはスピード、タイミング、バランス、パワー、そして精神面の全てを充実させなければいけない。自らを追い込むために心に刻んでいたのが幕末の志士たちに影響を与えた、吉田松陰の言葉です。

「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし」。その中でも私は計画を大事にしていた。時間的な制約がある中で、計画なくしては、自分で練習の質を上げたり、情報の収集や分析にも力を入れることはできませんから。階級を変更後、初めてスナッチで107・5キロの世界記録を成功させた瞬間は夢を見ているようでした。

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