話の肖像画

東京五輪金メダル1号、重量挙げ・三宅義信(81)(3)新聞配達で学んだ生き方

新聞配達の合間、野球チームに飛び入りで参加したことも(最前列左から2人目)
新聞配達の合間、野球チームに飛び入りで参加したことも(最前列左から2人目)

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《終戦を5歳で迎えた。日本全体が貧しかった時代、物心が付く頃から働くことが当たり前だった》

私の丈夫な体の原点ですよね。貧しい環境だったので、家の田畑で働くのは当然のこと。6歳下で後にメキシコ五輪(昭和43年)で一緒に表彰台に立った弟、義行をおんぶし、子守も兼ねてね。収穫した野菜は売り物だったので、食べたいのに食べられないことがつらかった。そのうちに10円程度のお駄賃をもらえるようになり、お金を稼ぐということが自然に身についたのでしょう。

子供のころから、とにかく体を動かすことが大好きでね。勉強は苦手だけど、イナゴ捕りやまき割りといった外の時間は私の独壇場。イナゴ捕りで一番になると、鉛筆などの賞品がもらえる。「勝負は勝たなければいけない」と思うようになったのは、この時からかもしれません。

《小学校ではいじめられることもあった》

背が小さかったからね。整列するといつも先頭。でも気は強かったから、取っ組み合いのけんかが絶えなかった。それを見た先生に、バケツを持って廊下に立たされたり、雪の積もった校庭をはだしで走らされたり。放課後は家の手伝いがあったから、大好きだった野球もチームに入れないことが多かった。

ある日、けんかをして泣いて帰ったら、父に怒られたんだ。「けんかはしてもいいが、男は泣いて帰るな。泣いてもいいが、外でちゃんと涙を拭いて、家では何でもないような顔をしていろ」とね。腕っ節が強く、頑固な父でしたから。一方で、「人の顔を見て物事を感じる人間になれ」「何をしてあげたら相手が喜ぶかを考えろ」とも常々、言われていた。

《小学5年生からは新聞配達を始めた》

親をもっと助けるためには何をすればいいんだろうと考えて始めたのが、新聞配達です。朝5時に起き、地元紙や全国紙も配るため、アップダウンのある田舎道を毎日4~5キロくらい走って回った。これが、知らず知らずのうちに強い足腰や基礎体力の向上につながっていたんだろうね。

母には「きちんと責任を持って遅れないように配りなさい」とだけ言われていてね。特に冬場は大変だった。前夜に必ず天気予報を聞き、吹雪の予報が出ると起床時間を1~2時間早める。そして新聞をぬらさないよう、さらに凍った道のりでも何とか同じ時間に配達できるよう、工夫をした。新聞配達で学んだ、「しっかり計画を練ることで事前にミスを防止する」という姿勢は、私の人生の基本になっている。

子供なりに知恵を絞って、新聞の拡張だってしたんだよ。新聞を取ってもらうためには、笑顔と信頼が大切だ。信頼される人間になるためには、絶対に時間に遅れてはいけない。笑顔を絶やさず、さまざまな仕事を手伝ったりしながら人の心をつかむ方法を覚えていったんだ。

新聞配達の給料は1カ月500円だった。給料袋を母に渡したときにかけられる「ありがとう」の声がうれしくてね。「ありがとう」は世界で一番きれいな言葉じゃないかな。人は感謝され、褒(ほ)められてこそ、次にまた頑張ろうという力が湧いてくるもんだ。(聞き手 西沢綾里)

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