話の肖像画

東京五輪金メダル1号、重量挙げ・三宅義信(81)(2) 幼いながらも母を支えて

東京五輪重量挙げフェザー級で金メダルを獲得。父の栄三郎さん(左端)、母のタケさん(右端)と歓喜の笑顔(本人は中央)=昭和39年10月12日、渋谷公会堂
東京五輪重量挙げフェザー級で金メダルを獲得。父の栄三郎さん(左端)、母のタケさん(右端)と歓喜の笑顔(本人は中央)=昭和39年10月12日、渋谷公会堂

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《蔵王連峰を望む宮城県村田町に昭和14年、生まれた。戦前の大家族で育った》

父・栄三郎は働くことが大好きで、母・タケが家族を守る。昔はみんなそうだった。私の家は「五反百姓」といって、田んぼと畑で5反(約5千平方メートル)あり、農作物の刈り入れが終わると、父は東京まで出稼ぎに行った。兄弟は7人となっているが、本当は9人。私のすぐ上の兄と2歳下の妹を幼くして亡くしています。赤痢といった昔のはやり病で、そういう時代だった。

私はというと、産婆(助産師)さんが駆けつけてくるのを待たずに生まれてしまうほど、元気な赤ん坊だったみたいだね。一番上の兄とは12歳も離れているので、兄というより父親代わり。大学進学の際など金銭面も含めて、たくさん助けてもらったよ。

《2歳のとき、大東亜戦争が始まった。戦中から戦後にかけ、生きることが大変な時代に幼少期を過ごした》

わが家は部隊の訓練場の途中にあり、兵隊さんが縁側で休んでいくんです。戦争が最も激しくなった昭和19年、当時5歳の私は、大きな南部鉄器の鉄瓶を持ってお茶を出す係を母に任されてね。それが本当に重たかった。茶をついで回る理由を母に尋ねると、「国のために戦っているのだから」と言われて、そういうものなのかと納得したもんだ。

「気をつけ、敬礼!」。この号令一つで並んで動く彼らの緊張感や威圧感は強烈でした。そして空襲警報が鳴るたびに家の電気を消して回り、防空壕(ごう)へ飛び込んで。最後に入るのは決まって母。入り口から少しでも頭を出すと怒られてね。20年7月の仙台空襲も忘れられません。あっという間に火の海となった仙台の街から立ち上る火炎が夜空に浮かび上がっていた。

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