四季折々の野菜が育つ。暑かろうが寒かろうが、根を張り、成長する野菜に生命力をみる。11月はサツマイモの豊作にわいた。その畑は「健太いのちの農園」と名付けられた。そして、そのすぐそばに、命を伝えるための場所がある。
1200キロ先へ語りかけ
宮城県松島町にある「健太いのちの教室」。壁にはいくつもの写真が掲げられている。破壊された町、眼鏡と名刺、高台への避難を呼びかける看板…。部屋の隅に置かれたソファに、田村孝行さん(60)と妻の弘美さん(58)が座り、パソコンの画面に向かう。夫妻は同県女川町を襲った東日本大震災の津波で、長男の健太さん=当時(25)=を失った。
約1200キロ離れた愛媛大の学生に、田村さんは語りかける。
「(今は)遺族が声をあげないといけない社会。そうではない社会を作っていかなければならない」
オンライン会議システムの画面上で、写真や資料を共有しながら、被災当時の女川を語る。弘美さんは健太さんとの思い出を話した後、こう訴えた。
「命の大切さ、安全な社会はどうあるべきか。次の世代に生かして、命のバトンを渡せるように親として頑張りたい」
震災当時、健太さんは女川町の中心にあった七十七(しちじゅうしち)銀行女川支店に勤務していた。地震が起き、支店長の指示で2階建てだった支店屋上に避難したが、従業員12人とともに津波にのまれた。支店から歩いてすぐにある高台に逃げていれば救えたはずの命だった。
対面して伝えることにこだわっていた夫妻にとって、オンラインでの活動には不安もあった。だが、距離が遠くても、画面越しでも、相手は涙を流し、声を震わせた。「どんな形でも私たちの思いが伝わった」。そう感じている。
失った息子と向き合うこと
東日本大震災の津波で長男の健太さんを失った田村孝行さん、弘美さん夫妻の伝承活動のきっかけは平成24年秋にさかのぼる。