勇者の物語

市民に支えられ存続 コイ昇る 虎番疾風録番外編128

祝勝会で喜びを爆発させる古葉監督(中央)。右は山本浩、左は衣笠=後楽園球場
祝勝会で喜びを爆発させる古葉監督(中央)。右は山本浩、左は衣笠=後楽園球場

■勇者の物語(127)

昭和50年、3年ぶり6度目のリーグ優勝を果たした阪急を待っていたのは、古葉竹識監督率いる広島東洋カープだった。10月15日、後楽園球場での巨人26回戦で快勝。25年の球団創設以来、初のリーグ優勝を果たした。

「この優勝は私たちだけのものではありません。これまで球団に携わった人たち、カープを支えてくださったファンの…」とここまで言って古葉監督は、こみ上げる涙で言葉を詰まらせた。

まさに〝苦節〟の歩みだった。カープは「県や各市一体の球団」として昭和24年10月に日本野球連盟に加盟した。その1カ月後に2リーグに分裂。パ・リーグへ参加を申し込んだが「母体が企業ではなく、県や市の地方自治体というあやふやな球団では…」と相手にしてもらえず、セ・リーグに陳情した。

初代監督は地元広島商出身で大阪タイガースなどの監督を歴任した石本秀一。創設期は極貧の球団だった。遠征費はリーグに立て替えてもらい、加盟金も未納状態。企業に借りていた合宿所を家賃未払いで追い出され、選手たちは地元の旅館「御幸荘」へ転がり込んだ。もちろん宿泊代も食事代も出世払い。遠征は3等車の床に新聞を敷いてごろ寝。選手たちへの給料も払えなかった。

リーグは〝お荷物〟球団を解散させ、大洋との合併を勧めた。26年3月14日、広島市内の「天城旅館」で行われた球団役員会。「合併やむなし」とする役員に石本監督はこう説いたという。

「カープは戦後の復興に頑張る広島県民の〝心〟です。絶対になくしちゃぁいかんのです」

大洋との合併話は土壇場で回避された。そして「後援会」を設立し、市民から支援を募ることになった。石本は県内各地で講演し、地元中国新聞に「ここでカープを潰せば、もう二度とこんな郷土チームはできない」という原稿を寄稿した。球場の入り口には2つの四斗樽が置かれ、ファンはなけなしのお金を入れた。「カープの樽募金」である。

余談だがこの物語は『ヒロシマ復興を支えた市民たち-鯉昇れ、焦土の空へ』というドラマになり、平成27年2月、NHK総合で放映。石本監督役のイッセー尾形の名演技に涙したのを覚えている。(敬称略)

■勇者の物語(129)

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