エリートの辛酸と成熟 瀬島龍三、「集大成」の全日本体操

 「なんで俺だけ…」

 2度目の左膝の手術を受けた。

 体のバランスが悪くなっていたのか、17年には右膝の半月板を痛めて、また手術。治っては壊れ、治っては壊れ、いつまでたっても歯車はかみ合わない。

 ようやく18年から調子が上がってきたと思ったら、19年の春先に右肩を故障した。瀬島は主将でありながら、チーム内で、物品の提供やトレーナーのケアがなくなる「2軍」に落とされた。

■「6種目がきつくなってきた」

 ちょうどこの時期、監督の米田は、世界大会になかなか選手を送り出せないチームを変革しようとしていた。

 「世界レベルに到達した選手と契約して五輪を目指す」との方針を徹底するため、19年秋から「契約試技会」を導入した。目立った成績のなかった瀬島は、その対象選手となった。契約を継続するには、5回の試技会で、同年の世界選手権日本代表の補欠に入れる水準のスコアを出すことが求められた。

 しかし、年末にあった最後の試技会まで瀬島はターゲットスコアをクリアできなかった。途中で左の広背筋を肉離れしていたのだ。

 「もう終わりなんだな。けがで終わるのは嫌だけど、しようがないか」

 だがここで、またも米田から思いもよらなかった言葉を掛けられる。「けががなかったら越えられた点数だろうから。最後まで走り切ってほしい」。翌20年4~6月の東京五輪代表選考会まで契約を伸ばすと告げられた。真摯(しんし)に故障にあらがい続けた瀬島を米田は見ていたのだ。

 新型コロナウイルスの感染拡大によって東京五輪は1年延期され、全日本選手権も12月にずれ込んだ。全日本で個人総合で12位以内に入ればナショナル選手に選ばれる。そうすれば瀬島は契約を続けられる条件だが、彼はどんな結果であっても、この大会を最後に引退すると決めた。

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