勇者の物語

西本学校 戦士育成「命かけた気構えで戦え」 虎番疾風録番外編125

丹前姿で打撃指導する西本監督(右下)左から羽田、関口コーチ、佐々木、梨田=昭和50年
丹前姿で打撃指導する西本監督(右下)左から羽田、関口コーチ、佐々木、梨田=昭和50年

■勇者の物語(124)

「2年後には優勝への足掛かりをつかんでおきたい」。言葉通り、近鉄の西本幸雄監督は昭和50年シーズンの後期優勝を果たした。

阪急時代、長池や大熊、阪本といった若手を『西本道場』で鍛え上げたように、近鉄でも佐々木や平野、羽田らを育て上げ、『西本学校』と呼ばれた。

2年目、西本は大きな〝賭け〟に出た。それは主砲・土井正博の放出だった。打撃の弱い近鉄で主砲のトレード(太平洋ク)は「無謀」と批判され、土井との間に「何か確執があったのでは」と噂された。後年、西本はその真意を話した。

「チーム作りにはいろんな方法がある。中心人物を前面に押し出す方法。逆に取り除いて若い芽を育てる方法。わしは悩んだ末に後者を選んだ。近鉄の若い選手に怠け者は誰一人いない。けれど、俺が-という強者もいない。それはチームの第一人者・土井への依存心が強かったからや」

西本の期待通り佐々木や平野や若手の芽が伸び始めた。だが、彼らはまだ〝戦士〟ではなかった。そんな中、5月30日の阪急戦(西宮)で〝事件〟が起こった。その日、阪急のマウンドにはルーキーの山口が上っていた。四回を終わって0-1と1点のビハインド。西本監督は五回、円陣を組んで指示をあたえた。

「1球目は見逃せ。ええか、ボールには絶対に手を出すな」

ところが、先頭の羽田は2球続けて完全なボールダマを振り、結局遊ゴロに倒れた。西本監督はベンチに戻ってきた羽田の横っ面を張り飛ばした。これが有名な『羽田殴打事件』である。

西本はなぜ、羽田を殴ったのか…。

「作戦が思い通りにいかなかったからでも、命令に従わなかったからでもない。問題は野球に取り組む姿勢や。もしあれが武士の真剣勝負やったら、針の穴ほどのスキも許されん。野球でも同じこと。〝命をかけた気構え〟で戦うべきやとワシは思う。羽田だけやなく選手全員に〝必死になること〟を教えたかった」

あとで先頭打者の羽田が円陣に入っていなかったことを知らされた西本は「しもたぁ」と思ったという。『西本学校』の校長先生はかわいいのである。(敬称略)

■勇者の物語(126)

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