勇者の物語

速球王の決意 高いレベルの世界で真っ向勝負 虎番疾風録番外編124

背番号「14」。山口(中央)は緊張気味(左は渓間代表、右は上田監督)
背番号「14」。山口(中央)は緊張気味(左は渓間代表、右は上田監督)

■勇者の物語(123)

ドラフト会議が行われた11月19日、山口高志は全日本メンバーとしてキューバへ遠征中。阪急の1位指名に松下電器が拒否反応を示した。

「福井(近鉄の1位)のプロ入りはしかたがない。われわれも諦めている。だが、山口は阪急には行きませんよ。おそらく本人も拒否でしょう。もちろん全社を挙げて引き留めます」と高木監督は言い切った。

昭和47年、関大の山口はプロ野球の誘いを振り切って社会人野球「松下電器」への入社を決意した。表向きの理由は「身体的にプロでやっていける自信がない」というもの。だが実際は、その年に起こった阪神・村山実の退団が大きな要因だった。

山口にとって関大の大先輩・村山の存在は大きかった。当時、大学紛争のあおりで過激派学生の圧力が強くなっていた関大では、体育部の予算が大きく削減され、各部は運営に苦しんでいた。野球部も年間20万円の予算では赤字は必至。そんな野球部に村山は年俸の中から援助した。さらに山口が右肩を痛めたときも親身になって相談にのった。その村山がクビに…。

「プロ野球とはそんな世界なのか…」。山口は失望した。それからまだ2年、高木監督は山口の変心はないと思っていた。だが、かつて加藤秀司が「プロへ行かないのなら、あと1年で野球をやめて仕事に専念しないと、同僚と差がついてしまうぞ」と言われたように、山口もまた「仕事か野球か」の選択を迫られていたのである。

「もっと高いレベルの世界で自分の力を試してみたい」

それが〝速球王〟の決意だった。12月上旬、キューバ遠征から帰国した山口は、松下電器側へ正直に自分の気持ちを伝えて頭を下げた。

12月27日、大阪市北区の新阪急ホテルで入団発表が行われた。契約金5千万円、年俸360万円(いずれも推定)。背番号「14」。

「真っ向から速球で勝負。村山さんの名前だけでピッチングが頭に浮かぶ。そんなムードを持った投手になりたい」

村山と関大でバッテリーを組んでいた上田が監督。山口の阪急入りは〝天の定め〟だったのかもしれない。(敬称略)

■勇者の物語(125)

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