書評

『彼らは世界にはなればなれに立っている』 時代の現実反映した恐怖

 意識的であろうとなかろうと優れた文学はそれが書かれた時代の現実を鮮烈に反映するものといわれる。それはまたメディアが報道する時代の様相とも異なっている。高度に管理化された情報からは、複雑微妙な人間関係や社会環境の諸相は、容易には見えてこないからだ。

 一方で小説は、かりに現実を超越した、あるいは現実とは別の次元に存在する世界を描いたものだとしても、作られたその世界は確実に人間的現実を構成する一要素となる。小説に書かれた人物は、それだけですでに一種の実在性を獲得していると考えていいからだ。

 太田愛の『彼らは世界にはなればなれに立っている』は、いつとも知れぬ、またどことも知れない世界を描いたファンタジー色の強い物語だが、その背後には現実社会のアクチュアリティがいや応なく見え隠れする。

 舞台となる〈始まりの町〉には、もともといた住人と、あとからやってきた帰るべき故郷を持たない、羽虫と呼ばれる流民たちがいた。両者の間には明らかな格差と差別があり、それによる分断と羽虫排除の気配が広がりつつあった。また地元住人の側でも、近年になって初等科からの学校教育で、規則を守り、わがままを言わず、我慢を覚え、指導的立場の人間に従うことを、徹底的に教え込まれるようになっていた。その教えはやがて、大人たちの間でも絶対的に守るべき指針となる。

 物語は、4人の人物(主に羽虫)が、それらの事どもや自分たちを取り巻く状況、町で起きる不穏な事件の数々を、それぞれの立場から順に語り継いでいくことで進行する。そこから次第に町の、というよりこの世界の姿が、一枚ずつベールを剥ぐように明らかになっていく。

 これが問答無用で怖い。じわじわと、音もなく迫ってくる、えたいのしれない恐怖が身内に湧きあがってくるのだ。

 それは例えていうと、悪と悪意の塊である。個人のものから始まって、次第に組織、国家へと広がる民意と称される悪の連鎖と塊だ。しかもこの悪意は意思をもって進化する。心ある人々の善意に呼応するように、悪意もまたきな臭い雰囲気を漂わせながら成長していく。そんな「現実」がここにある。(太田愛著/KADOKAWA・1700円+税)

 評・関口苑生(書評家)

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